新政学派の指導者へ
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北京政府崩壊後の1928年(民国17年)、楊永泰は、国民政府外交部長黄郛の推薦により国民政府入りする。まもなく国民政府軍事委員会参議として蒋介石の腹心・参謀となった。楊は、「馮玉祥を経済手段により、閻錫山を政治手段により、李宗仁を軍事手段により始末し、そして張学良は外交手段を用いて取り込むべきである」旨の進言を蒋に対して行い、蒋もこれを採用した。これにより、馮・閻・李を反蒋戦争に追い込んでしまう紆余曲折があったものの、最終的には、楊の進言どおりに蒋が国民政府における指導権を獲得することになった。 1931年(民国20年)から中国共産党掃討作戦が開始されたが、第1次から第3次の掃討作戦はすべて失敗に終わった。そこで楊永泰は、「三分軍事、七分政治」の策を蒋介石に進言した。これはすなわち、保甲制度や行政督察専員制度などの政治的手段を用いて共産党を政治的・経済的に追い詰め、さらに蒋の非直系部隊を討伐に差し向けて潜在的な敵対勢力を弱体化させることを内容としていた。蒋はこれを採用し、1933年(民国22年)2月、楊は軍事委員会委員長南昌行営秘書長兼第2庁長に任命された。 1934年(民国23年)には、蒋介石が唱導する新生活運動の企画・立案について、楊永泰がこれを担当した。1935年(民国24年)1月、軍事委員会委員長四川行営秘書長に就任した。楊は、川軍(四川軍)軍人たちの権限・影響力を削減して蒋の権力を浸透させるために、前年から立案していた行政督察専員制度などの様々な施策を実行している。同年2月、湖北省政府主席に転じた。行政改革・政治改革を実施して、やはり国民政府中央の権力浸透を推進している。 以上のような様々な貢献により、楊永泰は中国国民党内で「新政学派」と呼ばれる派閥を形成した。この派閥には、張群など有力政治家が属している。しかし、楊を始めとする新政学派の台頭には、陳果夫・陳立夫らのCC派が不快感を抱き、次第に両派は激しく党内抗争を繰り広げるようになる。 1936年(民国25年)10月25日、楊永泰は漢口訪問中に、CC派が派遣した刺客に襲撃され、暗殺された。享年57。
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