政権の終焉とは? わかりやすく解説

政権の終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 03:53 UTC 版)

ホスニー・ムバーラク」の記事における「政権の終焉」の解説

詳細は「エジプト革命 (2011年)」を参照 2011年1月発生したチュニジアでのジャスミン革命影響を受け、ムバラク長期独裁対す国民の不満はついに爆発し同年1月25日よりムバラク辞任求め暴動断続的に発生したムバラクアフマド・ナズィーフ内閣総辞職させて国民の不満を逸らせようとする一方自身退陣拒否した。しかし、首都カイロでのデモ拡大すると、ムバラク2月1日夜に行った国営テレビで演説で、同年9月予定されている次期大統領選挙への不出馬表明し政権歴史30年終止符打たれることになった。さらに2月10日には、大統領職即時辞任否定したものの、大統領権限オマル・スレイマン副大統領移譲する考え表明した。だが、野党勢力あくまでも大統領即時辞任求め姿勢崩さず権限委譲表明翌日2月11日スレイマン副大統領より国営テレビ通じムバラク大統領辞任発表された。権限委譲など野党勢力に対して譲歩示したものの、最終的に内外から高まる辞任圧力抗しきれなかったものと見られている。 ムバラク大統領在職中ムバラク一家欧米に無数の不動産銀行口座保有し資産総額世界一の約700ドル(約5兆8400億円)とも言われた。政変受けてスイス銀行スイス政府)は2月11日国家資産横領されるのを防ぐため、一家銀行口座不動産対象3年資産凍結することを決定した4月12日より一連の騒動でのデモ隊対す暴力行為への関与、さらに不正蓄財容疑検察による取り調べ開始されたが、その最中ムバラク心臓発作起こし入院したムバラク大事に至らず、翌13日には身柄息子二人と共に拘束された。2012年1月5日公判では革命のさなかデモ隊殺害関与したとして死刑求刑され、6月2日終身刑言い渡された。 2012年6月11日ムバラク収監されているカイロ郊外トラ刑務所健康状態悪化していると伝えられた。6月19日には刑務所からカイロ市内の軍の病院移送された後、意識不明重体になったことが伝えられたものの、その後体調回復し7月16日には刑務所への再収監決定した2013年1月13日エジプト最高裁判所終身刑判決覆し裁判やり直し命じた同じく終身刑判決下されていたアドリ元内相や、無罪とされていた9人の共同被告人についても裁判やり直し命じた2013年8月22日午後ムバラク収監先の刑務所からカイロ南部マーディにある軍病院ヘリコプター移送された。勾留先に支持者集まり出所歓迎した2014年11月29日事実上無罪となる公判棄却判決言い渡された。この時のエジプトの大統領であるアブドルファッターフ・アッ=シシも、ムバラクと同じ軍出身者であり、ムバラク無罪判決軍政回帰した事を内外印象づけた。ただし、ムバラク無罪判決となった事件とは別に公金横領した罪で禁錮3年判決受けているため、引き続き拘束された。 2017年3月2日ムバラク最高裁でのやり直し裁判無罪判決言い渡された。公金横領した罪で禁錮3年判決についてはこの時点刑期は既に終了している。

※この「政権の終焉」の解説は、「ホスニー・ムバーラク」の解説の一部です。
「政権の終焉」を含む「ホスニー・ムバーラク」の記事については、「ホスニー・ムバーラク」の概要を参照ください。

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