政権の終焉
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「ホスニー・ムバーラク」の記事における「政権の終焉」の解説
詳細は「エジプト革命 (2011年)」を参照 2011年1月に発生したチュニジアでのジャスミン革命の影響を受け、ムバラクの長期独裁に対する国民の不満はついに爆発し、同年1月25日よりムバラクの辞任を求める暴動が断続的に発生した。ムバラクはアフマド・ナズィーフ内閣を総辞職させて国民の不満を逸らせようとする一方、自身の退陣は拒否した。しかし、首都カイロでのデモが拡大すると、ムバラクは2月1日夜に行った国営テレビでの演説で、同年9月に予定されている次期大統領選挙への不出馬を表明し、政権の歴史は30年で終止符が打たれることになった。さらに2月10日には、大統領職の即時辞任は否定したものの、大統領権限をオマル・スレイマン副大統領に移譲する考えを表明した。だが、野党勢力はあくまでも大統領の即時辞任を求める姿勢を崩さず、権限委譲表明の翌日の2月11日、スレイマン副大統領より国営テレビを通じ、ムバラクの大統領辞任が発表された。権限委譲など野党勢力に対して譲歩を示したものの、最終的には内外から高まる辞任圧力に抗しきれなかったものと見られている。 ムバラクの大統領在職中、ムバラク一家は欧米に無数の不動産や銀行口座を保有し、資産総額は世界一の約700億ドル(約5兆8400億円)とも言われた。政変を受けてスイス銀行(スイス政府)は2月11日、国家資産が横領されるのを防ぐため、一家の銀行口座と不動産を対象に3年間資産を凍結することを決定した。 4月12日より一連の騒動でのデモ隊に対する暴力行為への関与、さらに不正蓄財の容疑で検察による取り調べが開始されたが、その最中にムバラクは心臓発作を起こし入院した。ムバラクは大事には至らず、翌13日には身柄を息子二人と共に拘束された。2012年1月5日の公判では革命のさなかデモ隊の殺害に関与したとして死刑を求刑され、6月2日、終身刑を言い渡された。 2012年6月11日、ムバラクが収監されているカイロ郊外のトラ刑務所で健康状態が悪化していると伝えられた。6月19日には刑務所からカイロ市内の軍の病院に移送された後、意識不明の重体になったことが伝えられたものの、その後体調が回復し、7月16日には刑務所への再収監が決定した。 2013年1月13日、エジプトの最高裁判所は終身刑の判決を覆し、裁判のやり直しを命じた。同じく終身刑の判決を下されていたアドリ元内相や、無罪とされていた9人の共同被告人についても裁判のやり直しを命じた。 2013年8月22日午後、ムバラクは収監先の刑務所からカイロの南部・マーディにある軍病院にヘリコプターで移送された。勾留先には支持者が集まり、出所を歓迎した。 2014年11月29日に事実上の無罪となる公判棄却の判決が言い渡された。この時のエジプトの大統領であるアブドルファッターフ・アッ=シシも、ムバラクと同じ軍出身者であり、ムバラクの無罪判決は軍政回帰した事を内外に印象づけた。ただし、ムバラクは無罪判決となった事件とは別に公金を横領した罪で禁錮3年の判決を受けているため、引き続き拘束された。 2017年3月2日、ムバラクは最高裁でのやり直し裁判で無罪判決を言い渡された。公金を横領した罪で禁錮3年の判決についてはこの時点で刑期は既に終了している。
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