アラムート政権の終焉とは? わかりやすく解説

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アラムート政権の終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 10:24 UTC 版)

ニザール派」の記事における「アラムート政権の終焉」の解説

詳細は「フレグの西征」を参照 すでにニザール派東方領域ではモンゴル帝国軍の攻撃さらされていたが、1256年4月には徐々に西進していたフレグ率い大軍イラン入りニザール派拠点攻撃開始した。ルクヌッディーン・フールシャーはモンゴル軍によるニザール派壊滅を望むスンナ派諸勢力懐柔通じてモンゴル軍による攻撃避けようとして交渉に入る。しかしながらその複雑な対立関係により交渉失敗フレグからはイマームおよびニザール派モンゴルへの完全服従という無条件降伏求め最後通牒受け取ることになる。これをめぐってニザール派紛糾する間、モンゴル軍アラムート周辺対す攻撃開始し当時ルクヌッディーンの滞在していたマイムーン城砦集中的に攻めあげた。マイムーン城砦アラムート城砦に比べ防備薄く11月8日フレグ自身指揮による総攻撃始まり数日のうちに降伏余儀なくされた。11月19日にはルクヌッディーンが城を出たモンゴル軍はルクヌッディーンを鄭重に扱い、残る諸城砦に対し降伏命じさせた。これにしたがって諸城砦は次々降伏したが、アラムート城砦は12月、ランバサル城砦1257年まで持ちこたえ、さらに1270年ころまで抵抗した城砦もある。しかし大勢としては諸城砦の降伏によって、約150年にわたるニザール派独立政権はルクヌッディーンの降伏によって滅亡したといえる1257年3月9日、ルクヌッディーンは大カアン・モンケに謁見するためカラコルム旅立った。しかし抵抗続け城砦存在理由謁見かなわず、その帰途1257年春、モンゴル高原ハンガイ山脈付近殺害されニザール派イマームを失うことになる。また諸城砦もモンゴル軍によって次々破却され、アラムート大図書館も失われた

※この「アラムート政権の終焉」の解説は、「ニザール派」の解説の一部です。
「アラムート政権の終焉」を含む「ニザール派」の記事については、「ニザール派」の概要を参照ください。

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