アラム語形・中期イラン語での例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 09:29 UTC 版)
「シャー」の記事における「アラム語形・中期イラン語での例」の解説
その後この「シャー」および「シャーハンシャー」の王号は、ペルシア帝国時代から使用されていたアラム語では melek malkîn と翻訳された。聖書ヘブライ語の「諸王の王」מלך מלכים (melekh melākhīm、エゼキエル書 26:7。ただしペルシアではなく新バビロニアのネブカドネザル2世の称号) は、その直訳といえる。アラム語形の מלך מלכיא melekh malkhayyā はエズラ記 7:12 と ダニエル書 2:37 に見え、前者はアルタクセルクセス1世を、後者はネブカドネザルを指す。マケドニア王国のアレクサンドロス3世によるペルシア帝国の滅亡とセレウコス朝のシリア、メソポタミア支配によって一時「諸王の王」の称号の使用は中断したものの、東方からメソポタミアを征服したパルティアで再び復活した。パルティアの王たちは、ミトラダテス2世以降、発行したコインの銘文にギリシャ語で ΒΑΣΙΛΕΩΣ ΒΑΣΙΛΕΩΝ(諸王の王の)と刻み、またアラム語の碑文などで自らを melek malkîn ないし malkîn malkâ' と名乗った。サーサーン朝初期の碑文や後世のマニ教文書などの研究によれば、パルティア語そのものでは"χšāhān-χšāh"と称していたようである。パルティアを倒してメソポタミアおよびイラン高原を継承したサーサーン朝でも šāhān-šāh として受け継がれた。特にサーサーン朝ではシャープール1世以来歴代の君主たちは「エーラーンと非エーラーンの諸王の王」と称したが、政治的にも諸国の王šāhān- を支配する王 šāh としての意味が強化され、サーサーン朝の君主は各地に「シャー」を分封して中央集権化を推進し、文字どおり「諸王の王」となった。 一方、東方のソグド地方では「諸王の王」の称号は用いられなかったようである。ソグディアナの都市国家それぞれを統括していた領主たちはアラム語語彙で MR'Y 、またはこれをソグド語に直した xwβw(フブ), xwt'w(フターウ : 近世ペルシア語の khodā)と呼ばれていたが、8世紀頃のサマルカンド王デーワーシュティーチュはソグドの諸々の都市国家の上位に立つ「ソグド王」として「ソグドのイフシード(王)」 swγδyk MLK'(= (')xšyδ) と名乗っている。このソグド語で「王」を意味する (')xšyδ も古代ペルシア語の χšāyaθiya- と語源を共有する語彙である。 さらにクシャーナ朝の君主たちは、支配階層で使用されたバクトリア語で、単に ÞΑΟ(シャーウ? : 「王」)ないし ÞΑΟΝΑΝΟÞΑΟ、すなわち ÞΑΟΝΑΝΟ(ÞΑΟ の複数斜格:王たち(の))+ ÞΑΟ(王)と称し、同時代のパルティア同様「諸王の王」を名乗っている。同種の称号を用いたことが分かっているのは現在確認できる最古のバクトリア語資料であるヴィマ・タクト王の碑文での用例からであり、以後カニシカ1世など歴代のクシャーナ朝の君主たちは ÞΑΟΝΑΝΟ ÞΑΟ (諸王の王)を名乗り続けている。
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