退陣と余生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 16:50 UTC 版)
「コンラート・アデナウアー」の記事における「退陣と余生」の解説
1959年ごろから、アデナウアーの威信は低下し始める。この年、連邦大統領を2期務め引退するテオドール・ホイスの後任大統領としてエアハルトを据えようとしたが、これは「経済の奇跡」の立役者として人気を博し、アデナウアーの後継者と目されていたエアハルトを棚上げして自身の政権の延命を図るためだった。当時83歳だった老宰相のこの態度が周囲の猛反対を受けると、アデナウアーは今度は「大統領が首相の職務に介入できる」ことを条件に自らが大統領になろうとするが、これも猛反発を受けて撤回。結局、ハインリッヒ・リュプケを候補者とすることで落ち着いた。 1961年、ベルリンの壁が建設された際、アデナウアーはベルリンに赴かず強い批判を受ける。当時西ベルリン市長であったヴィリー・ブラントが事態をよく把握し西ドイツ国民の支持を集める一方、アデナウアーは「首相はどこに行った」と批判を受けた。アデナウアー自身、ブラントの人気に「西ドイツの首相は誰だ」と強く嫉妬心を抱いたといわれる。政府の意のままにならないドイツ公共放送連盟(ARD)に対抗する国営放送創設の企ても、連邦憲法裁判所に違憲とされ失敗した。なおこの放送局は、1963年に公共放送局・第2ドイツテレビ(ZDF)として開局することとなる。 1962年には雑誌『デア・シュピーゲル』の編集者および記者が国家反逆罪のかどで警察に逮捕されるスキャンダルがあり、この逮捕をアデナウアーが承認したことが明らかになり、フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス国防相の首を差し出して切り抜けたものの、指導力の低下は覆うべくもなかった。この年には初めての心臓発作を起こし健康不安も重なり、翌年に連邦首相を辞任、エアハルトへの禅譲を余儀なくされた。 しかしアデナウアーはなおもCDU党首の座に1966年まで留まった。更に連邦議会議員も辞任せずその死去まで務めたが、当時の91歳という年齢はドイツ連邦議会史上最高齢である。1967年4月19日午後1時21分、インフルエンザに心臓発作を併発したアデナウアーは自宅で死去した。最後の言葉は "Da jitt et nix zo kriesche!"(ケルン方言で“泣くことなど何も無い!”)だった。故郷のケルン大聖堂で国葬が行われ、その棺はドイツ連邦軍の高速艇でライン河を運ばれ、自宅近くの墓地に埋葬された。
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