吉田政権退陣後の不遇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 19:19 UTC 版)
1954年、吉田が退陣し、鳩山一郎内閣が成立すると状況は一変し、保利はしばらく表舞台から遠ざかる。1955年の保守合同で生まれた自由民主党に参加、党内では佐藤派に所属する。また、翌年結成された自由民主党佐賀県連の初代会長となった。 池田勇人内閣で自民党総務会長となるが、1963年の総選挙で落選し雌伏を強いられる。落選中も佐藤栄作からの厚い信頼を得ていた保利は、池田が三選を目指す1964年自由民主党総裁選挙への佐藤出馬を促したが、同じ派内で重きを為していた田中角栄が吉田の説得を取り付けてまで佐藤と池田の仲介に乗り出しており、この頃から田中との間に確執を生まれることになる。結果的に現職の池田が再選を果たすものの、程なくしてに喉頭癌で退陣を余儀なくされ、後継総裁に佐藤が当選する下地を作ることとなった。 1966年8月の内閣改造で佐藤は保利を農相に起用しようとしたが、川島正次郎副総裁・田中幹事長らの反対で実現しなかった。
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