吉田政権での起用
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1950年の民主党分裂に当たっては民主党連立派に属し、吉田茂の民主自由党に合流、自由党を結成する。そのまま、いわゆる「吉田学校」の言わば「編入生」として吉田に重用される。 1950年、第3次吉田第1次改造内閣で労働大臣で初入閣。当選3回、49歳だった。吉田は保利の能力と粘り強さを高く評価した。しかし、犬養を差し置いての保利の入閣には悪評がつきまとった。1951年には内閣官房長官に抜擢された。吉田は保利に「単なる補佐役と思っては困ります。あなたがもし総理大臣だったらどうするか、そう考えて仕事をしてください」と官房長官の心得を諭した。 吉田自由党では大野伴睦・林譲治・益谷秀次が「ご三家」、池田勇人・佐藤栄作・広川弘禅・保利茂が「四奉行」と呼ばれた。公職追放が解除となり、戦前派の大物が続々と政界に復帰し、吉田に退陣圧力をかけた。戦前、政友会の幹事長を務めた松野鶴平も自由党に復帰し、死去した古島一雄に代わって吉田首相の政治指南役となった。保利官房長官は吉田と松野の連絡役を務めた。大麻唯男は松村謙三ら旧民政党系政治家と「新政クラブ」を作り、野党の国民民主党と合同して1952年2月に改進党を結成し、総裁には元外相の重光葵を担ぎ出した。通常国会は荒れ模様となり吉田首相は鳩山派の攻勢に反撃するため、松野の入れ知恵で抜き打ち解散の意向を固め、保利官房長官にその準備を指示した。 臨時国会は同年8月26日に召集され、大野が衆議院議長に選出された。その2日後に吉田首相は突如として衆議院の解散を断行した。憲法7条だけに基づく初めての解散であり、野党も鳩山派も完全に意表を突かれた。自由党執行部からも不満が噴出した。解散を事前に知っていたのは保利、池田、佐藤、松野らに限られ、林幹事長、益谷総務会長、大野衆議院議長らには事前の根回しがなかった。特に「三日議長」とやゆされた大野は激怒し、その怒りの矛先は保利官房長官に向けられた。後々まで「寝業師」「策士」と言われたのは、犬養を置いてきぼりにして入閣したことと、この抜き打ち解散の経緯がある。
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