新自由クラブ時代
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1976年(昭和51年)に政工研のメンバーだった田川誠一、西岡武夫、山口敏夫、小林正巳、有田一寿らと自民党を離党、新自由クラブを結成し党首に就任。結党直後の第34回衆議院議員総選挙では都市部を中心に一挙に17人の当選者を出す躍進を遂げた。なお、同年の新自由クラブ立ち上げ当時に、ニッポン放送の深夜放送『オールナイトニッポン』のパーソナリティを務めた経験(1976年7月30日放送)がある。 1979年(昭和54年)、西岡の離党・自民党復党によって打撃を受け、同年の第35回衆議院議員総選挙では惨敗した。後、代表を辞任している。また、自民党が総選挙で過半数割れした後の四十日抗争の際に当時の大平正芳首相から連立の申し出があったが、自民党内の反対で立ち消えになった(連立政権では田川が文部大臣に就任する予定だった)。なお、1981年(昭和56年)には映画『ええじゃないか』に原市之進役で出演したこともある。 1982年(昭和57年)、河野の政界の師匠である中曽根康弘が内閣総理大臣となると、連立政権案が浮上。1983年(昭和58年)、新自由クラブは第37回衆議院議員総選挙で過半数割れした自民党の呼びかけに応じ、連立政権に参加した。1984年(昭和59年)に新自由クラブ代表に復帰。1985年(昭和60年)には第2次中曽根再改造内閣で科学技術庁長官に就任し、政界入りから18年目で初入閣。 1986年(昭和61年)、新自由クラブは解党し、河野も自民党に復党する。
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