新自由クラブ時代とは? わかりやすく解説

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新自由クラブ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:57 UTC 版)

河野洋平」の記事における「新自由クラブ時代」の解説

1976年昭和51年)に政工研のメンバーだった田川誠一西岡武夫山口敏夫小林正巳有田一寿らと自民党を離党新自由クラブ結成し党首就任結党直後第34回衆議院議員総選挙では都市部中心に一挙に17人の当選者を出す躍進遂げた。なお、同年新自由クラブ立ち上げ当時に、ニッポン放送深夜放送オールナイトニッポン』のパーソナリティ務めた経験1976年7月30日放送)がある。 1979年昭和54年)、西岡離党自民党復党によって打撃を受け、同年第35回衆議院議員総選挙では惨敗した。後、代表を辞任している。また、自民党総選挙過半数割れした後の四十日抗争の際に当時大平正芳首相から連立申し出があったが、自民党内の反対立ち消えになった連立政権では田川文部大臣就任する予定だった)。なお、1981年昭和56年)には映画ええじゃないか』に原市之進役で出演したこともある。 1982年昭和57年)、河野政界師匠である中曽根康弘内閣総理大臣となると連立政権案が浮上1983年昭和58年)、新自由クラブ第37回衆議院議員総選挙過半数割れした自民党呼びかけ応じ連立政権参加した1984年昭和59年)に新自由クラブ代表に復帰1985年昭和60年)には第2次中曽根改造内閣科学技術庁長官就任し政界入りから18年目で初入閣1986年昭和61年)、新自由クラブ解党し、河野自民党復党する。

※この「新自由クラブ時代」の解説は、「河野洋平」の解説の一部です。
「新自由クラブ時代」を含む「河野洋平」の記事については、「河野洋平」の概要を参照ください。

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