派閥領袖として
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池田の後継総裁に佐藤栄作、河野、藤山愛一郎の3人が名乗りを上げた。情勢は佐藤に有利だった。劣勢の河野と藤山は「どちらが指名されても互いに協力する」との連合の盟約を結んだ。こうした情勢をみて前尾はひそかに藤山一本化工作を進めた。前尾は河野と親しい船田中衆議院議長と会い「情勢を河野に伝え、立候補を断念するよう河野を説得してもらいたい」と頼んだ。船田は河野と会って前尾の話を伝え、候補者から降りるよう説得した。しかし河野は結局拒否し、藤山一本化構想は不発に終わった。 1965年6月の佐藤内閣の最初の改造では池田の推薦により自民党総務会長に就任した。7月池田がガンが広範囲に転移していることが判明。入院当日の朝、池田は私邸に前尾、大平、鈴木の3人を呼んで後事を託した。「前尾君を中心にして、大平、鈴木両君は前尾君を助けてやってくれ。前尾、田中の時代が来るだろう。前尾君はPRをしないのが良いところだが、もっとすべきだ。」これが遺言になり1965年8月に池田は死去したため、前尾は宏池会を引き継ぎ会長となった。 前尾は派閥を政策集団として認識していた次のエピソードがある。政治資金を無心に来た陣笠議員に「金が沸く本」として貴重な蔵書を渡したところ、陣笠議員はその本に札束が入っているだろうと頁をめくるがいっこうに見つからない。前尾はその本の内容を理解すれば人格も磨かれ自然と政治資金が集まってくると説いたつもりであったが、後日、その陣笠議員に「どうだ、金が沸いてきそうだろう?」と尋ねたために、その議員の人心を失ったというものである。 こうした前尾の考え方に、同じ宏池会に所属し池田内閣を支えてきた大平正芳は、派閥をあくまで政権獲得を第一義とし、認識が違った。また小坂善太郎や丹羽喬四郎らの古参議員と斎藤邦吉・佐々木義武・伊東正義ら中堅・若手議員の派内対立も起きた。宏池会の幹部が前尾直系の議員で固められたこともあり、大平は独自に若手に対する政治資金の世話をするようになった。大平との関係は次第に悪くなり、これが1968年の自由民主党総裁選挙に顕在化した。前尾は「資金は大平、票は鈴木(善幸)」と役割分担を決め、悠然と構えていた。しかし佐藤栄作の三選阻止で出馬した前尾は95票を獲得したが、107票を獲得した三木武夫を下回る3位と惨敗した。前尾はもともとこの総裁選には乗り気でなく、派閥の求心力を保つために渋々出馬したのだが、あまりの惨敗に衝撃を受けた前尾は、このままでは大平に宏池会を渡せない、次回総裁選は死ぬ気で戦うと述べるようになった。 ところがその1970年の総裁選挙では、佐藤栄作は前尾に対して「四選後に内閣改造を行う際には前尾派を優遇する」と約束したため前尾は出馬を見送る。さらに四選を果たした佐藤は約束を違えて内閣改造を見送り、前尾は生き恥をさらす結果となった。これに田中六助、田沢吉郎、塩崎潤などの大平系若手議員が猛反発して派の分裂も辞さない構えを見せたため、前尾は会長を大平に譲った(大平側近の田中六助は「池田さん(池田勇人元首相)が生きていたら、私は池田派に籍を置くつもりだった。もう二度と宏池会の会合には出席しない」と前尾を批判した)。佐藤は前尾が宏池会会長を辞任した三ヶ月後に内閣改造をして前尾を法務大臣に任命した。
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