派閥領袖としてとは? わかりやすく解説

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派閥領袖として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 10:05 UTC 版)

前尾繁三郎」の記事における「派閥領袖として」の解説

池田後継総裁佐藤栄作河野藤山愛一郎の3人が名乗りを上げた。情勢佐藤有利だった劣勢河野藤山は「どちらが指名されても互いに協力する」との連合盟約結んだこうした情勢をみて前尾はひそかに藤山一本化工作進めた。前尾は河野親し船田中衆議院議長会い情勢河野伝え立候補断念するよう河野説得してもらいたい」と頼んだ船田河野会って前尾の話を伝え候補者から降りるよう説得した。しかし河野結局拒否し藤山一本化構想不発終わった1965年6月佐藤内閣最初改造では池田推薦により自民党総務会長就任した7月池田ガン広範囲転移していることが判明入院当日の朝、池田私邸に前尾、大平鈴木の3人を呼んで後事託した。「前尾君を中心にして、大平鈴木両君は前尾君を助けてやってくれ。前尾、田中時代が来るだろう。前尾君はPRをしないのが良いところだが、もっとすべきだ。」これが遺言になり1965年8月池田死去したため、前尾は宏池会引き継ぎ会長となった。 前尾は派閥政策集団として認識していた次のエピソードがある。政治資金無心に来た陣笠議員に「金が沸く本」として貴重な蔵書渡したところ、陣笠議員その本札束入っているだろうと頁をめくるいっこうにつからない。前尾はその本内容理解すれば人格磨かれ自然と政治資金集まってくると説いたつもりであったが、後日、その陣笠議員に「どうだ、金が沸いてきそうだろう?」と尋ねたために、その議員人心失ったというものであるこうした前尾の考え方に、同じ宏池会所属し池田内閣支えてきた大平正芳は、派閥をあくまで政権獲得第一義とし、認識違った。また小坂善太郎丹羽喬四郎らの古参議員斎藤邦吉佐々木義武伊東正義中堅若手議員の派内対立起きた宏池会幹部が前尾直系議員固められたこともあり、大平独自に若手対す政治資金世話をするようになった大平との関係は次第悪くなり、これが1968年自由民主党総裁選挙顕在化した。前尾は「資金大平、票は鈴木(善幸)」と役割分担決め悠然と構えていた。しかし佐藤栄作の三選阻止出馬した前尾は95票を獲得したが、107票を獲得した三木武夫下回る3位惨敗した。前尾はもともとこの総裁選には乗り気でなく、派閥求心力を保つために渋々出馬したのだが、あまりの惨敗衝撃受けた前尾は、このままでは大平宏池会渡せない、次回総裁選は死ぬ気で戦うと述べようになった。 ところがその1970年総裁選挙では、佐藤栄作は前尾に対して「四選後に内閣改造を行う際には前尾派優遇する」と約束したため前尾は出馬を見送る。さらに四選を果たした佐藤約束違えて内閣改造見送り、前尾は生き恥をさらす結果となった。これに田中六助田沢吉郎塩崎潤などの大平若手議員猛反発して派の分裂辞さない構え見せたため、前尾は会長大平譲った大平側近田中六助は「池田さん(池田勇人元首相)が生きていたら、私は池田派籍を置くつもりだった。もう二度と宏池会会合には出席しない」と前尾を批判した)。佐藤は前尾が宏池会会長辞任した三ヶ月後に内閣改造をして前尾を法務大臣任命した

※この「派閥領袖として」の解説は、「前尾繁三郎」の解説の一部です。
「派閥領袖として」を含む「前尾繁三郎」の記事については、「前尾繁三郎」の概要を参照ください。

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