宏池会会長とは? わかりやすく解説

宏池会会長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:24 UTC 版)

大平正芳」の記事における「宏池会会長」の解説

次の佐藤政権では政調会長第2次佐藤内閣2度目改造内閣通商産業大臣歴任したが、佐藤大平好いておらず、7年8ヶ月に及ぶ政権においては三角大福中でも不遇だった。通産相として日米繊維交渉解決託され大平自身意欲的に取り組んだというが、交渉進展芳しくない感じた佐藤大平事実上更迭し、ライバル宮澤喜一後任据えた。このことも大平佐藤への不信感増幅させた(結局宮澤繊維交渉解決できず、田中角栄通産相裁量によって妥結を見る)。大平佐藤外交手法には批判的で、沖縄返還を巡る「抜き本並み」の方針について「噛み付くようなものだ」と冷評していたという。 大平属す派閥宏池会池田死後前尾繁三郎会長となり、世話人を前尾系の政治家固めていたが、大平は派内の若手議員集めて中派の「木曜会」を作り独自に政治資金世話などをするようになった1970年総裁選で、佐藤は「前尾が出馬しなければ内閣改造をして宏池会優遇する」と約束するが、これが反故となったことで前尾は求心力を失う。翌1971年昭和46年)、田中六助木曜会担がれる形の「大平クーデター」で前尾にかわって大平が宏池会会長に就任名実ともにポスト佐藤時代リーダー候補として名乗りをあげた。以後1980年昭和55年)の死去まで派閥領袖の座にあった三角大福争いとなった1972年昭和47年総裁選では、立候補宣言した後に藤山愛一郎中垣國男灘尾弘吉有力者訪ね支援求めた選挙では3位につけて存在感アピールその後田中角栄盟友関係を続ける。 第1次第2次田中内閣で再び外務大臣第2次田中改造内閣三木内閣大蔵大臣務め内政外政にかかわる要職歴任していった。 田中内閣外務大臣だったときに中国訪問それまで台湾との日華平和条約廃し新たに日中国交正常化実現させた。日中国交正常化における大平役割について、倪志敏著『田中内閣における中日国交正常化大平正芳(その1-その4)』が最も詳しい。 その後1974年昭和49年12月田中金脈問題田中総理辞任すると、蔵相だった大平ポスト田中最有力候補となり田中派後押し背景総裁公選での決着主張。しかし椎名裁定により総理総裁三木武夫転がり込んだ三木内閣では引き続き蔵相務めるが、この時に値上げ三法案(酒・たばこ郵便値上げ法案)が廃案になったことによる歳入欠陥対処するために10年ぶりの赤字国債発行踏み切り以後日本財政赤字体質強まったことが後年消費税導入による財政健全化への強い思いへとつながっていく。 1976年昭和51年)の三木おろしでは再び総裁を狙うが、最終的に福田赳夫と「2年大平政権禅譲する」としたいわゆる「大福密約」の元で大福連合樹立福田内閣樹立協力し幹事長ポスト得て福田首相大平幹事長体制確立した保革伯仲国会では大平幹事長は「部分連合パーシャル連合)」を唱えて野党協調的対応を求め国会運営円滑化に努める。

※この「宏池会会長」の解説は、「大平正芳」の解説の一部です。
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