長老政治家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 10:05 UTC 版)
宏池会会長辞任後、椎名悦三郎、灘尾弘吉と私的な懇談を持った。椎名は戦時中の商工次官、灘尾は内務次官で官僚としては先輩であったが、2人は宏池会会長の座を追われた前尾の境遇に同情していた。この会合が次第に定例化していつしか「三賢人の会」と呼ばれるようになる。田中内閣の末期から三木内閣にかけて政局に大きな影響力を発揮するようになる。1973年5月に中村梅吉衆議院議長が失言問題で辞任した際、前尾は後任の衆議院議長に就任した。在任中、田中角栄首相の後任として前尾の名前も取りざたされたが、議長は総理になるべきではないと意に介さなかった。議長退任後は自民党の最高顧問となった。福田内閣に続いて1978年11月に大平内閣が誕生した。大平と前尾の関係は冷却したままで、前尾は宮沢喜一に目をかけ、新しい指導者として期待していた。大平・前尾関係を心配した双方の周囲がお膳立てをして1979年8月、和解の席が設けられた。この席で前尾は財政再建が急務であり一般消費税の導入が必要であると進言し、長年対立していた大平と和解した。1979年の総選挙でまさかの落選を喫し、引退を決意したが、その直後に高松宮が前尾邸を訪れて「健康に留意してこれからも国に尽くすように」との昭和天皇のご内意を伝えられた。感激した前尾は周囲に「オレは死ぬまで政治家をやる」と述べて引退を翻意した。翌1980年に行われた総選挙で復活を遂げる。1981年7月23日、京都市嵯峨の自宅で心筋梗塞で死去。75歳没。旧京都2区の地盤は野中広務が引き継いだ。墓地は京都市右京区の清涼寺にある。
※この「長老政治家として」の解説は、「前尾繁三郎」の解説の一部です。
「長老政治家として」を含む「前尾繁三郎」の記事については、「前尾繁三郎」の概要を参照ください。
- 長老政治家としてのページへのリンク