第四共和政成立と大統領就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 07:04 UTC 版)
「ヴァンサン・オリオール」の記事における「第四共和政成立と大統領就任」の解説
1945年11月にド・ゴールを首班とする臨時政府に国務大臣として入閣する。戦後のオリオールは第四共和政発足に当たり、憲法制定議会で議長に選出された。オリオールはド・ゴール派とフランス共産党の間にあって「第三勢力」の結集に動いた。1945年10月に国際連合が発足すると、オリオールはフランスの初代国際連合代表となった。同時期の総選挙でオート=ガロンヌ県から国民議会議員に選出され、1947年1月16日にド・ゴール派・人民共和運動のオーギュスト・シャンプティエ・ド・リブを452票対242票で下し、大統領に選出された。 第四共和政における大統領は第共和政におけるよりも権限が縮小され、対外的にフランスを代表する権限・法律審査権・国会で採択された法律に対する再審請求権を保有するに留まった。尤(もっと)もオリオール自身はフランスの国家元首として、フランスと友好国の関係をより親密なものにしようと試みた。 一方、内政面では戦後・混乱からなかなか抜け出せずに疲弊した経済・政治的混乱・インドシナ戦争に関して責任を問われた。特に終戦直後は経済的苦境から脱することができず、1947年には各地で食糧暴動が発生した。共産党系の最大労組である労働総同盟、CGT)もストライキに突入した。ストライキは11月に暴動に発展し、ポール・ラマディエ首相と同内閣に閣内協力していたフランス共産党は全面対決の様相を呈し、共産党閣僚は更迭され、12月にストライキは収拾された。 インドシナ戦争を別にしても、フランス植民地帝国はオリオールの在任中に縮小の一途を辿った。モロッコ・マダガスカル・アルジェリア・チュニジアでは、より頻繁に衝突が激化していった。1953年にオリオールは演説の中で「私は風前の灯の国家の惨めな長であると感じている」と語った。1954年1月に大統領の任期が終了して退任した。後任には上院副議長のルネ・コティが就任した。 大統領退任後は長老政治家として、折に触れ政治評論を執筆した他に第五共和政が成立すると憲法評議会議員に就任した。これに伴い旧社会党の党籍を離れている。1965年12月の大統領選挙ではフランソワ・ミッテランを支持した。
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