長老派としての独立派批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/26 18:24 UTC 版)
「ウィリアム・プリン」の記事における「長老派としての独立派批判」の解説
激動の時代のなかでプリンはラディカルな立場にあったが、1644年以降は保守的になり長老派教会を擁護して独立派を攻撃し、オリバー・クロムウェルから好意をもたれた。また説教師ジョン・グッドウィンを攻撃し、旧友のヘンリー・バートンと行き違いになった。また、平等派のジョン・リルバーンに反論して、平等派への弾圧を議会に要求した。他方、プリンは長老派聖職者の制度確立要求に対しても敵対的であり、国家主権を教会に優先させることを維持した。プリンは国家法で定められた範囲以外の、聖職者の破門権やサクラメントを行う権利を否定したほか、サミュエル・ルーサーフォードに反論した。プリンは共和派のジョン・ミルトンとも離婚論に関して衝突した。ロバート・ベイリー(英語版)はプリンをコバンザメと批判した。 プリンは権力への不信を持っておらず、抽象的な自由への愛着もなかった。パンフレットThe Sword of Christian Magistracyは、民間の知識人による全体的で冷酷な抑圧を嘆願したものであった。 1647年のニューモデル軍と議会の対立に際してプリンは軍を批判し、軍が弾劾した長老派の指導者を弁護した。同年にはオックスフォード大学臨検委員となり、翌1648年4月にペンブルック伯フィリップ・ハーバートがオックスフォード大学学長(英語版)に就任すると、プリンはペンブルック伯に付随して強情な大学幹部を追放した。 11月、コーンウォールのニューポート議会(長期議会のための議会)でプリンは議員に選出された。議席を持つと即座に軍への反対を主張し、軍を反乱者として宣言するよう庶民院に請求し、ニューポート条約で得られたチャールズ1世の特権について追求した。 2日後にプライドのパージ(クーデター)が発生すると、プリンはパージを主導したトマス・プライド大佐とハードレス・ウォーラーに逮捕され、ストランドの白鳥宮に幽閉された。プリンはトーマス・フェアファクス卿に抗議の手紙を送ったり、印刷された宣言によって抗議した。プリンはチャールズ1世への告発を提案した。
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