宏池会分裂の経緯
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1998年、宮澤喜一から加藤紘一に宏池会会長の座が禅譲されることがほぼ確実となった段階で、これに不満を唱えた河野洋平に近しい議員たちがKK戦争により分派(河野本人はこれ以前に宏池会を離れており、当時無派閥)。河野系の離脱直後、加藤は宏池会会長に就任。河野は翌1999年1月に、宏池会を脱退した議員たちと共に、大勇会を結成。1995年9月の自民党総裁選(橋本龍太郎が勝利)において、自民党政調会長の職にあった加藤は、現職総裁で同じ宮澤派に属していた河野への支持を明言せず、静観の姿勢をとった。しかし、加藤の側近である白川勝彦、古賀誠、谷垣禎一、川崎二郎らは、河野ではなく橋本を支持することを逸早く表明し、公然と橋本支持に動いた。河野不利が伝えられる中、身内から離反者が大量に出たことで、河野は出馬断念に追い込まれた。加藤はその功もあってか、橋本執行部において党幹事長に就任。 派閥は継承したものの、宏池会が割れた原因を作った加藤の行動に宮澤が不満を抱き、加藤の乱の際、反加藤である旨を表明する要因になったといわれている(浜田幸一は、「加藤の乱は宮澤がけしかけた」との説を述べている)。 2000年の加藤の乱の際、加藤に同調しない加藤派議員の多くが、森内閣不信任案に反対票を投じる。この中には、かつて加藤の側近と言われた古賀、堀内光雄、丹羽雄哉らもいた。不信任案否決後、反加藤議員は加藤の反党行為を非難し、加藤派から堀内派(後に丹羽・古賀派および古賀派)として分派。
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