派閥抗争説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 08:47 UTC 版)
作家の典厩五郎は、この時期の徳川家は、常に前線で活躍し武功と出世の機会を多くつかんでいた浜松城派と、怪我で戦えなくなった者の面倒や後方支援や(織田家との)外交問題を担当していた岡崎城派に分裂する兆しがあり、両者の対立が家康と岡崎城派に担がれた信康との対立に発展し、最終的に信康が幽閉先で服部正成に暗殺された疑いがあるとして、この事件から甲斐武田家における武田義信事件のように信康を担いで岡崎衆による「家康追放」未遂事件があったとする説を唱えている。また信康の処刑と前後して岡崎城に勤める多くの重臣や奉公人が次々と懲罰や処刑に追い込まれ、逐電(逃亡)する者が続出し、派閥抗争の末の粛清や懲罰があったと唱えている。歴史研究家の谷口克広も典厩の説を支持し、岡崎衆は家康への不満か家康の旗本に対する反発から信康を担いでクーデターを起こすことを企み、築山殿もそれに関係していたのではないかと推測している。 岩沢愿彦が1968年に家忠日記の原本を検めたところ、この事件については、6月4日に「信康御〇〇の中をなをし二被越候」として、家康が岡崎に出向いた。この段階では徳姫との不和の仲介とも読める。しかし、8月4日に岡崎城にて家康と信康が争論により物別れとなった。家康は和解に積極的だが信康が応じず、その結果として信康が降伏の形で岡崎退城に追い込まれた。これは信康が武田氏との連携に傾いて、信長との同盟を継続しようとする家康との政治的立場の相違が不和の原因であるという傍証になるとする。
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