派閥争い 1910年代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/20 18:39 UTC 版)
「五大ファミリー」の記事における「派閥争い 1910年代」の解説
1910年、モレロ一家のボス、ジュゼッペ・モレロが監獄送りになった時に権力の空白が生まれ、覇権争いが起きた。モレロと共に捕まり政府密告者になったサルヴァトーレ・クレメンテの証言によれば、当時のニューヨークは、マンフレディ派(ブルックリン)、ニコラ(コラ)・シーロ派(ブルックリン)、ロモンテ派(ハーレム)、ダキーラ派(ハーレム)の4つの派閥があり、前3者は互いに提携しているが、ダキーラ派とは対立しているとした。 マンフレディ(アル・ミネオ)派(パレルモ閥) コラ・シーロ派(カステランマレーゼ閥) ロモンテ派(コルレオーネ閥) ダキーラ派(パレルモ閥) 定説では、1910年にモレロやルポが投獄された時、ロモンテがモレロ一家を継ぐ一方で、パレルモ派はルポの後継者にダキーラが頭角を現し、モレロに代わって全米リーダー(ボスの中のボス)に選出された(それまでモレロが全米のマフィアリーダーだったとする。ニコラ・ジェンタイルの証言)。 ダキーラのボス選出に反発したアル・ミネオがコルレオーネ派やカステランマレーゼ派と同盟してダキーラに対抗し、ここにパレルモ派が2つに分かれた。「ダキーラ派は何度も襲撃されており、これからも抗争が起きるだろう」と予測したクレメンテの言葉通り、その後流血抗争が起こり、ロモンテ兄弟やジュゼッペ・フォンタナ(パレルモ閥)などが殺された。 1916年、モレロ一家が新たにブルックリンで台頭したカモッラの攻勢をうけ(マフィア-カモッラ戦争)、ハーレム108丁目からハーレム116丁目にテリトリーを移した時、108丁目にいたコルレオーネ系のガエタノ・レイナが独自の派閥を形成し(現ルッケーゼ一家)、ここにコルレオーネ派閥が2つに分かれた。 ブルックリン臨海区・南部には世紀の変わり目以前からパレルモ系派閥が形成され、ダキーラ一家から派生したともアル・ミネオが率いたギャングだったとも言われたが、プロファチ一家(現コロンボ一家)の源流となった。
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