竹下登派時代
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1985年2月7日、自民党を離党しながらも派閥領袖として影響力を持ち続ける田中角栄に反旗を翻した竹下登、金丸信らを中心に、木曜クラブ(田中派→二階堂グループ)内に勉強会として創政会が結成される。田中の激しい巻き返しに遭うが、同月27日に脳梗塞を発症した田中は政治活動ができなくなり、竹下の優勢が固まった。 1986年4月25日、創政会は解散され、反対派や中間派の取り込みが図られた。 1987年2月28日の第75版『国会便覧』(日本政経新聞社)時点における木曜クラブ(田中派)所属議員は139人。 同年5月21日、政治資金パーティー「竹下登自民党幹事長激励の夕べ」が東京プリンスホテルで開かれ、史上空前の1万3千人が参集した。売り上げはおよそ20億円と言われ、田中派からの参加者は128人と9割以上に達した。欠席した二階堂グループの議員はわずか13人で、圧倒的な力の差を見せつけた。同年7月1日、田中派の常任幹事会が開かれるが、総裁候補一本化をめぐる二階堂、竹下両グループの話し合いは決裂。ついに田中派の分裂が確定した。 同月4日、新派閥の経世会が結成された。参加議員は計113人。派閥名は民生や経済を意味し中国の古典にある「経世済民」から取られた。会長には竹下が就任し、竹下派と呼ばれた。ここに至り、当時141人の議員を有していた田中派は、(1)竹下派、(2)木曜クラブ(二階堂グループ)、(3)中立系の3つのグループに分かれることとなった。 同年9月1日、『国会便覧』第76版が発行される。この時点における3派の所属議員は以下のとおり。 派閥議員数議員名竹下派 114 (省略) 木曜クラブ(二階堂グループ) 15 江崎真澄、久野忠治、二階堂進、松野幸泰、山下元利、稲村利幸、小坂徳三郎、田村良平、林義郎、有馬元治、保岡興治、田中直紀、井上吉夫、川原新次郎、吉川芳男 中立系 12 小沢辰男、渡辺紘三、後藤田正晴、戸井田三郎、木村睦男、大鷹淑子、河本嘉久蔵、世耕政隆、長谷川信、森下泰、浦田勝、海江田鶴造 同年10月20日、中曽根康弘の裁定により、竹下、安倍晋太郎、宮澤喜一のうちの3人から、竹下が次期自民党総裁に内定した。 「中曽根裁定」も参照 同年11月6日の竹下内閣発足時には、竹下派は121人に増えた。竹下の総理就任後、金丸信が経世会会長に就任した。 竹下がリクルート事件で辞任後も、最大派閥として、人事・資金の両面から自民党を、ひいては日本政界を実質支配し、「経世会支配」と呼ばれた。また、このころには竹下派七奉行などの有力政治家を擁していた。リーダーによる鉄の締め付けが残る経世会は「一致結束・箱弁当」と形容された。派閥名が変わった今日でもこの派閥を経世会と呼称する人が多いのは、この時期の同派の影響力を物語っている。 竹下派の有力幹部は永田町のTBRビルに事務所を構えていたが、高級官僚や米国高官が内閣総理大臣官邸よりも、TBRビルを優先して訪問していた様は、首相による権威の低下と経世会支配の象徴とされた。 元は竹下が会長だったが、留守を預かっていたはずの金丸が竹下退陣後も会長に留任し、日本における影の権力者として君臨。これを受けて最高権力者の竹下との関係が悪化した。特に、金丸子飼いの小沢一郎が自民党幹事長辞任後に経世会会長代行に就任し、金丸の庇護のもとに辣腕をふるったことは竹下に近い議員の反発を買った。この頃には、海部内閣の衆議院解散に際して小沢が反対して海部内閣が総辞職に追い込まれた海部おろしなどの動きがあり、海部内閣から宮澤内閣に至る時期は、金丸、竹下、小沢のいわゆる「金竹小(こんちくしょう)」が政府および自民党の実権を掌握していた。 1992年10月14日、金丸は東京佐川急便事件の責任をとり、議員辞職願を提出し、会長も辞任した。10月16日、経世会の総会が開かれる。出席者は所属議員109人中93人。竹下派を支えてきた七奉行がここで真っ二つに割れた。小沢支持グループは奥田敬和、渡部恒三に小沢を加えて3人。これに対し、反小沢グループは橋本龍太郎、小渕恵三、梶山静六の3人。派内状況の行方を決定付ける立場に立っていたのが、これまで独自の道を歩んでいた羽田孜であった。羽田は総会が終わると真っ直ぐに赤坂プリンスホテルに向かった。ホテルの一室に入ると、小沢を筆頭に奥田、佐藤守良、石井一、左藤恵らがいた。奥田は一枚の文書を羽田に示した。経世会新会長に誰を推薦するとは書いてなかったが、羽田を想定していることは明白であった。この会合から小沢支持グループの「羽田会長構想」がスタートした。 この抗争においては、反小沢グループは小渕を担ぎ出す方針を決めた。衆議院は数が拮抗していたものの、実権を取り戻したい竹下が参議院は反小沢でまとまるよう青木幹雄に指示。加えて宮澤喜一首相が現職の蔵相である羽田の派閥活動を行きすぎがあるとして警告を発した。 同年10月21日、議院運営委員会で金丸の議員辞職願が受理される。同日朝、国会地区のキャピトル東急ホテル前で「羽田擁立集会」が始まった。そして午前10時、最高幹部会が開かれると、沈黙を守っていた金丸から小沢に「すぐに事務所に来い」と電話が入る。小沢が赴くと金丸は「いつまで子供みたいな喧嘩をしてるんだ」と叱責した。金丸の隣には竹下がいた。「ここは小渕で行くしかないだろう。敵が少ないのがこの際一番だ」と竹下は言った。「参院経世会を動かしたのは竹下さんですね。納得できません。卑劣じゃないですか」「だから君は若いんだ。参院の小渕待望論が亀裂の溝を埋めるんだ」「あなたの認識はずっとおかしい」 竹下の説得は平行線をたどり、小沢は聞く耳を持たなかった。午後に再開された最高幹部会も膠着状態が続いた。午前0時を回ったとき、座長格の原田憲が突然席を立ち、記者会見で「新会長には小渕君が適任だと考える」と述べた。同年10月28日午前11時から始まる臨時総会で半ば強引に竹下子飼いの小渕の会長就任が決まった。それから5時間後、羽田は政策集団「改革フォーラム21」を結成すると発表した。 同年12月18日、小沢支持グループは「改革フォーラム21」を派閥に衣替えし、44人から成るグループ「羽田派」(代表:羽田孜)を正式に結成。これにより竹下派は党内第四派閥の小渕派と、第五派閥の羽田派に分裂した。
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