竹下登派時代とは? わかりやすく解説

竹下登派時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 19:38 UTC 版)

平成研究会」の記事における「竹下登派時代」の解説

1985年2月7日自民党を離党しながら派閥領袖として影響力持ち続け田中角栄反旗を翻した竹下登金丸信らを中心に木曜クラブ田中派二階堂グループ)内に勉強会として創政会結成される田中激し巻き返し遭うが、同月27日脳梗塞発症した田中政治活動ができなくなり竹下優勢固まった1986年4月25日創政会解散され反対派中間派の取り込み図られた。 1987年2月28日の第75版『国会便覧』(日本政経新聞社時点における木曜クラブ田中派所属議員139人。 同年5月21日政治資金パーティー竹下登自民党幹事長激励夕べ」が東京プリンスホテル開かれ史上空前1万3千人参集した売り上げはおよそ20億円と言われ田中派からの参加者128人と9割以上に達した欠席した二階堂グループ議員はわずか13人で、圧倒的な力の差を見せつけた。同年7月1日田中派常任幹事会開かれるが、総裁候補一本化をめぐる二階堂竹下グループ話し合い決裂。ついに田中派分裂確定した同月4日新派閥の経世会結成された。参加議員は計113人。派閥名は民生経済意味し中国古典にある「経世済民」から取られた。会長には竹下就任し竹下派呼ばれた。ここに至り当時141人の議員有していた田中派は、(1)竹下派、(2)木曜クラブ二階堂グループ)、(3)中立系の3つのグループ分かれることとなった同年9月1日、『国会便覧』第76版が発行される。この時点における3派の所属議員以下のとおり派閥議員議員竹下派 114省略木曜クラブ二階堂グループ15 江崎真澄久野忠治二階堂進松野幸泰山下元利稲村利幸小坂徳三郎田村良平林義郎有馬元治保岡興治田中直紀井上吉夫川原新次郎吉川芳男 中立12 小沢辰男渡辺紘三後藤田正晴戸井田三郎木村睦男大鷹淑子河本嘉久蔵世耕政隆長谷川信森下泰浦田勝海江田鶴造 同年10月20日中曽根康弘裁定により、竹下安倍晋太郎宮澤喜一のうちの3人から、竹下次期自民党総裁内定した。 「中曽根裁定」も参照 同年11月6日竹下内閣発足時には、竹下派121人に増えた竹下総理就任後、金丸信経世会会長就任した竹下リクルート事件辞任後も、最大派閥として、人事資金両面から自民党を、ひいては日本政界実質支配し、「経世会支配」と呼ばれたまた、このころには竹下派七奉行などの有力政治家擁していた。リーダーによる締め付けが残る経世会は「一致結束箱弁当」と形容された。派閥名が変わった今日でもこの派閥経世会呼称する人が多いのは、この時期の同派の影響力物語っている。 竹下派の有力幹部永田町TBRビル事務所構えていたが、高級官僚米国高官内閣総理大臣官邸よりも、TBRビル優先して訪問していた様は、首相による権威の低下経世会支配象徴とされた。 元は竹下会長だったが、留守を預かっていたはずの金丸竹下退陣後会長留任し日本における影の権力者として君臨。これを受けて最高権力者竹下との関係が悪化した。特に、金丸子飼い小沢一郎自民党幹事長辞任後経世会会長代行就任し金丸庇護のもとに辣腕ふるったことは竹下に近い議員反発買ったこの頃には、海部内閣衆議院解散に際して小沢反対して海部内閣総辞職追い込まれ海部おろしなどの動きがあり、海部内閣から宮澤内閣に至る時期は、金丸竹下小沢いわゆる金竹小こんちくしょう)」が政府および自民党実権掌握していた。 1992年10月14日金丸東京佐川急便事件責任をとり、議員辞職願を提出し会長辞任した10月16日経世会総会開かれる出席者所属議員109人中93人。竹下派支えてきた七奉行がここで真っ二つ割れた小沢支持グループ奥田敬和渡部恒三小沢加えて3人。これに対し、反小沢グループ橋本龍太郎小渕恵三梶山静六の3人。派内状況の行方決定付ける立場立っていたのが、これまで独自の道を歩んでいた羽田孜であった羽田総会が終わると真っ直ぐに赤坂プリンスホテル向かったホテル一室に入ると、小沢筆頭奥田佐藤守良石井一左藤恵らがいた。奥田一枚文書羽田示した経世会新会長に誰を推薦するとは書いてなかったが、羽田想定していることは明白であった。この会合から小沢支持グループの「羽田会長構想」がスタートした。 この抗争においては、反小沢グループ小渕担ぎ出す方針決めた衆議院は数が拮抗していたものの、実権取り戻したい竹下参議院は反小沢でまとまるよう青木幹雄指示加えて宮澤喜一首相現職蔵相である羽田派閥活動行きすぎがあるとして警告発した同年10月21日議院運営委員会金丸議員辞職願が受理される同日朝、国会地区キャピトル東急ホテル前で「羽田擁立集会」が始まった。そして午前10時最高幹部会開かれると、沈黙守っていた金丸から小沢に「すぐに事務所来い」と電話が入る。小沢赴くと金丸は「いつまで子供みたいな喧嘩をしてるんだ」と叱責した。金丸の隣には竹下がいた。「ここは小渕で行くしかないだろう。敵が少ないのがこの際一番だ」と竹下言った。「参院経世会動かしたのは竹下さんですね。納得できません。卑劣じゃないですか」「だから君は若いんだ。参院小渕待望論が亀裂の溝を埋めるんだ」「あなたの認識はずっとおかしい」 竹下説得平行線をたどり、小沢聞く耳を持たなかった。午後に再開され最高幹部会膠着状態続いた午前0時回ったとき、座長格の原田憲が突然席を立ち、記者会見で「新会長には小渕君が適任だ考える」と述べた同年10月28日午前11時から始まる臨時総会半ば強引に竹下子飼い小渕会長就任決まった。それから5時間後、羽田政策集団改革フォーラム21」を結成する発表した同年12月18日小沢支持グループは「改革フォーラム21」を派閥衣替えし、44から成るグループ羽田派」(代表:羽田孜)を正式に結成。これにより竹下派党内第四派閥小渕派と、第五派閥羽田派分裂した

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