竹下派支配から経世会の分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/26 08:30 UTC 版)
「一龍戦争」の記事における「竹下派支配から経世会の分裂」の解説
1991年の東京都知事選挙で党本部の公認候補(公明党、民社党相乗り)が党都連の推す現職鈴木俊一知事に敗れ小沢は幹事長を辞任し、竹下派ナンバーツーの会長代行に就任。また橋本も証券、金融不祥事と富士銀行の不正融資事件に元秘書が関わっていた責任を取って大蔵大臣を引責辞任した。 同年10月には海部首相が退陣表明。後継首相を決める総裁選では渡邉美智雄、三塚博、宮沢喜一の3派閥領袖を竹下派事務所に呼びつけ、小沢による口頭試問を行い、竹下派は宮沢推薦を決定。宮沢首相を誕生させる。 1992年6月、PKO関連法案国会通過の後に東京佐川急便事件が発覚。竹下派会長だった金丸副総裁は10月21日に議員辞職に追い込まれ、竹下派会長の跡目を巡って橋本と小沢の抗争が激化する。橋本は、同期の小渕恵三元幹事長を、小沢はこれまた同期の羽田孜蔵相をそれぞれ領袖候補に推して争ったが、後継は小渕に決まった。小沢は羽田ら44人を率いて経世会から脱会し改革フォーラム21を結成、竹下派は分裂する。その後、内閣改造で宮沢首相は小渕派厚遇、羽田派冷遇の人事を行い、翌年の不信任造反に繋がる。
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