竹下派の後継会長抗争
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「竹下派七奉行」の記事における「竹下派の後継会長抗争」の解説
竹下派会長だった金丸信が1992年に発覚した東京佐川急便事件で会長職を辞任したのをきっかけに、後継会長を巡る派内抗争に発展した。夏季休暇を狙って事件を公表し、わざわざ玄関で強制捜査を撮影させる有様だった。この結果、派閥オーナーである竹下と、会長代行である小沢の対立が深刻化した。 七奉行は竹下側に立った「小渕・橋本・梶山」と、表の羽田、裏の小沢を二枚看板とする「小沢・羽田・渡部・奥田」に分裂することになる。後継会長人事で、竹下系は竹下の側近中の側近である小渕を推し、小沢・羽田系は清新なイメージの羽田を推した。両者は中間派であった羽田グループの引き込みに奔走。竹下は「羽田会長」「羽田総裁」を約束し、小沢は「選挙制度改革」を訴えた。強硬な政治改革論者だった羽田は、小沢に合流することを選択。羽田と親密だった奥田らも同調した。 衆議院では小沢系が67人中35人と過半数を固めたものの、参議院は衆議院を握ればそちらへ流れると見て工作を怠った。一方小渕系は竹下の命を受けた青木幹雄・斎藤十朗らが小渕支持工作に奔走し38人中30人を固め、直後の金丸・竹下・小沢の3者会談で小沢が竹下をなじる一幕があった(参院は小沢の「参院は(衆院さえ固めれば)後からついて来る」という参院軽視発言が瞬時に伝わったため、それまで衆院で優勢な体制を築き上げつつあったにもかかわらず参院側の離脱を招いた。また、先に事務所の金庫を押さえたのも竹下側だった)。最終的に会長を決定する経世会最高幹部会で、座長の原田憲が小渕支持の座長見解を出し、小渕が後継会長の座に就いた。 旧竹下系は小渕派となり、第4派閥に転落した。一方の小沢・羽田系44名は経世会を離脱して改革フォーラム21(羽田派)を立ち上げた。これによって竹下派七奉行は同じ派閥の中で活動することはなくなった。
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