竹下派時代とは? わかりやすく解説

竹下派時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:08 UTC 版)

小沢一郎」の記事における「竹下派時代」の解説

竹下派内では先輩小渕恵三橋本龍太郎とともに竹下派七奉行一人数えられ竹下総裁就任奔走した同年発足した竹下内閣では内閣官房副長官就任した消費税導入など税制改革を巡る国会審議目処がたたない中、「事実上国対委員長」と呼ばれるほどに野党対策尽力し民社党審議採決応じさせることに成功した。こうして党内での評価高めとともに、この時期竹下内閣における日米間の建設市場開放協議や、宇野内閣における電気通信協議といった困難な交渉取りまとめたことで、米政府関係者にも「タフ・ネゴシエーター」として名を知られるようになった。なお、宇野内閣期に経世会事務総長就任している。 竹下派、特に金丸意向によって1989年8月第1次海部内閣成立した際、金丸推薦により47歳若さ党幹事長就任した金丸竹下とともに政権実質的な実力者となり、ねじれ国会下で公明党など野党とのパイプ駆使して国会対策あたったリクルート事件初の総選挙苦戦予想され1990年平成2年)の第39回衆議院選挙を、自由主義体制維持名目経済団体連合会経団連傘下企業から選挙資金300億円を集めて勝利した同年8月湾岸戦争勃発すると、小沢ペルシャ湾自衛隊派遣することを模索した。「アジアへの配慮必要だ」と反対する外務省や、ハト派である海部俊樹首相慎重論抑え法案提出させた(なお、この法案野党後藤田正晴自民党ハト派議員反対廃案となり、後に国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律PKO協力法)が成立する)。なお小沢自身日本改造計画の中でPKFへの自衛隊参加許されるという立場表明していた。 この頃は「ミスター外圧」などと呼ばれたマイケル・アマコスト駐日大使が、首相である海部飛び越えて小沢加えて金丸)と直接協議することが常態化しており、アマコストは海部より小沢会った回数のほうが多いとも言われた。日米構造協議でも大蔵省の強い反対にかかわらず公共投資10年間で430兆円とすることで妥結したが、これも金丸小沢・アマコストの3者が政府先立って金額到るまで協議し、すでに話をつけていたという。同年9月金丸を代表とする北朝鮮訪問団(金丸訪朝団)に参加する。また大韓民国盧泰愚大統領訪日した際には、党役員会で戦争責任問題における共同声明天皇談話内容関しこれ以上何を謝ればいいんだ」と謝罪明文化することを拒絶したとも取れ発言をしたと報道された。 自衛隊海外派遣のような懸案抱える中、ねじれ国会のもとで政権運営を行うためには野党協力が必要であるため、国対族金丸のつてで小沢公明党民社党接近する。両党との協力一環として第12回統一地方選挙における東京都知事選挙で、自民党東京都総支部連合会推す現職鈴木俊一代わり新人磯村尚徳擁立する。しかし粕谷茂をはじめ、当時自民党都連幹部鈴木支援したこともあり、90票近い大差敗北した。なお、この都知事公示直前出馬意欲的であったアントニオ猪木会談し出馬断念させたが、多額金銭動いたと@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}一部メディア[要出典]に報じられた。小沢指揮した統一地方選挙全体では自民党勝利であったものの、小沢海部に自ら申し出て都知事選の責任取り党幹事長辞任した。この辞任公明党民社党義理を立てた形にもなり、自公民路線維持寄与し、また後の非自民連立政権におけるワン・ワン・ライス伏線ともなった幹事長辞任直後経世会会長代行就任した会長金丸派閥オーナー竹下とともに金竹小体制最大派閥経世会リードし引き続き海部政権実力者であり続けた。しかし、次第金丸小沢派閥譲ろう企図するようになり、首相再登板を狙う竹下との確執深めるこの年6月狭心症倒れて日本医科大学付属病院入院40余り療養生活を送った同年首相海部政治改革法案国会で審議未了廃案となったことを受け、マスコミに対して重大な決意で臨む」と発言。これは衆議院の解散示唆する発言であることが明らかだったため、党内反主流派反発招いた加えて党内主流派として海部支えていた竹下派小沢も、マスコミの前で「(海部は)何を言うちょるの」と発言した海部党内基盤脆弱だったが支持率高かったため、解散権行使をめぐる神経戦マスコミ媒介して行うことで世論支持得ようとしたとみられるが、これが裏目に出てほどなく首相職辞任表明することとなった(「海部おろし参照)。この際金丸小沢対し次回総裁選出馬して首相後継を狙うよう命じ金丸意を受けた渡部恒三なども小沢説得したが、当時49歳という年齢や心臓病狭心症心筋梗塞のため日本医大病院入院した。)を理由にこれを固辞したとされる。のちに小沢は「首相になりたいであれば、この時になっていた」とたびたび発言している。週刊朝日インタビューで「経世会最大派閥宮沢さん渡辺ミッチーさんも僕が出馬するなら協力すると言ってくれていましたから、あの時、「はい」と言えば総理になっていました宮沢さん渡辺さん心境を思うと若い僕が飛び越えて総理ということはできないという気持ちでした。少し前、心臓患ったばかりで精神的に準備出来ていなかったという面があり、固辞しました。」と述べている。 最大派閥経世会が独自の総裁候補立てた場合には宮沢派三塚派渡辺派は「三派連合」で対抗する構え見せていたが、独自候補立てないことが明らかになる一転し、三派がそれぞれ経世会支持求めて争うようになった10月10日経世会支持する候補者決定するため、出馬表明していた宮沢渡辺三塚博らと自身個人事務所それぞれ面談したいわゆる小沢面接」)。当時竹下派支持事実上次の総裁決定する状況にあり、当選回数あるいは年齢上回る派閥領袖たる総裁候補自分事務所呼びつけ次期首相品定めするかのような振る舞い傲慢であると批判されるとともに当時竹下派権勢物語るものと捉えられ今日に至るまで「経世会支配」「剛腕小沢」の象徴的シーンとして取り上げられている(平野貞夫によれば当日ホテル会場満室でどこも予約できず、推薦する側の小沢側から訪問するのも筋が違うため、小沢事務所面談することになったという)。宮沢も後に『日本経済新聞連載の「私の履歴書」の中で、「支持をこちらからお願いしているのだから、出向くのが筋であった」と回顧した1991年平成3年)の青森県知事選挙では六ヶ所再処理工場誘致巡り激し反対運動の中で行われ劣勢と言われていた北村正哉候補支援党幹事長として頭越し行い関係者への締め付けにあたり北村当選大きく貢献した宮澤内閣組閣にあたって絶大な影響力行使されたとされ、自派はもちろん他派閥からも自身に近い議員大量に入閣させた。(加藤紘一渡辺秀央等。)

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「竹下派時代」を含む「小沢一郎」の記事については、「小沢一郎」の概要を参照ください。

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