みつづか‐は【三塚派】
三塚派
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三塚派移行後、三塚は、1991年10月27日に行われた自民党総裁選に、宮沢喜一、渡辺美智雄と共に出馬するが、最下位に終わる(宮沢:285、渡辺:120、三塚:87。宮沢と渡辺・三塚連合では78票差だった)。このとき、竹下派としての方針が決まる前、竹下は三塚を、金丸は渡辺を推したが、最終的に竹下派は宮沢支持に決まった。総裁選後発足した宮沢内閣では、金丸・小沢主導による露骨な「三塚派はずし」が画策され、三塚派からの入閣ゼロ、党三役からの締め出しという、三塚派への報復人事が計画された。この計画は、金丸が慕っていた福田赳夫の介入により頓挫し、最終的には4人が入閣、政調会長に森が就任することで決着する。しかし、三塚派からの入閣者は、いずれも内閣の要となるポストからは外され(塩川正十郎自治相、宮下創平防衛庁長官、谷川寛三科技庁長官、中村正三郎環境庁長官)、結果的には報復人事の色合いが濃く残った。
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