村上・亀井派時代
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1998年11月30日、政策科学研究所(中曽根派→渡辺派→旧渡辺派)から山崎拓グループが近未来政治研究会(山崎派)を結成して分離独立した。翌12月に同派は村上正邦が新会長に就任して村上派となったが、派閥の弱体化は避けられなかった。実質的な同派のオーナーであった中曽根康弘と領袖の村上は、一方で派内の路線対立により清和会(三塚派)から離脱していた亀井静香グループと合流し、1999年3月18日に志帥会を結成した。 旧渡辺派から山崎派が分離独立する際、旧渡辺派所属の参議院議員については、当時参院幹事長で「参議院の法王」とも呼ばれた村上がまとめあげていたため、山崎派への賛同者は少なかったが、衆議院議員は中堅・若手の大半が山崎派に移行したため、旧渡辺派側は長老・ベテラン議員が多く残り、一方の亀井グループ側は、所属衆議院議員の半数以上を経験不足の当選3回以下の若手が占めていた。このため、共に影響力を削がれた少数派閥として両派は思惑が一致し、分離独立した派閥同士の「対等合併」により志帥会は一気に衆参あわせて60人規模の大派閥となった。 1999年3月18日、初代会長に村上が、会長代行に亀井がそれぞれ就任。
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