三増酒の流通とその背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:39 UTC 版)
「日本酒の歴史」の記事における「三増酒の流通とその背景」の解説
1956年(昭和31年)「もはや戦後ではない」と言われるようになり、メチルやカストリといった危険な密造酒は大幅に減じ、甲類焼酎さえも1956年(昭和31年)を境に消費減少へ転じた。しかし、日本酒に、戦前と同じような消費環境が戻ってきたわけではなかった。日本酒の消費は伸び続けていたが、戦後の一時的救済策として開発された三増酒が、その消費の主流として定着していた。 昭和一桁世代は、旧来の日本酒との接点を持たずに大人になり、増産酒以前の日本酒に味覚的郷愁を持っていなかったため闇酒、粗悪な焼酎、ビール、ウィスキーから飲み始め、日本酒といえば三増酒のことで「頭が痛くなる」「気持ち悪くなる」ものであった。 焼け跡世代は、下級ウィスキー(その時々の級別制度によって「三級ウィスキー」から「二級ウィスキー」になっていった)から飲み始めた。大量のアルコール添加をしている点では、三増酒と同じであったが、調味料が入っていないこと、日本産でも西洋のイメージがあること、アルコール度が高いものを炭酸水で水割りにして飲むことなどから、三増酒に向けられるような泥臭い印象は持たれなかった。下級ウィスキーは1968年(昭和43年)ごろまで庶民によって旺盛に消費されていく。
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