竹下派の結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/26 08:30 UTC 版)
1985年2月7日、竹下登が田中派の派内勉強会「創政会」を立ち上げる。竹下らの造反に憤った田中角栄は過度の飲酒がたたり、同年2月27日に脳梗塞で倒れる。言語能力を失った田中は娘眞紀子の支配下に置かれ、眞紀子は竹下系議員を門前払いにした。後に田中家は小沢だけ門前払いを解いたのに対し、橋本は最後まで許さなかった。 1988年、リクルート事件の発覚で翌年に竹下首相が退陣。後継首相に宇野宗佑外相が決定すると、宇野の下で橋本を幹事長に就任させ参院選を乗り切ろうとしたが、選挙結果は惨敗。開票時に橋本が「チクショー」と呟くシーンが話題となった。しかし不人気の宇野に代わり全国を遊説して回った橋本の人気は高く、ポスト宇野と囁かれたが、橋本の女性スキャンダルなどの理由で竹下派内に反対論が噴出し橋本擁立は流れる。 結局、後継首相には河本派の海部俊樹が決まり、小沢は七奉行最年少ながら竹下派会長の金丸信の強い後押しで幹事長に大抜擢、橋本は大蔵大臣に就任した。この頃から「一龍戦争」が取り沙汰されるようになる。派内では橋本は竹下に、小沢は金丸に近かったことから、竹下、金丸の代理戦争という側面もあった。
※この「竹下派の結成」の解説は、「一龍戦争」の解説の一部です。
「竹下派の結成」を含む「一龍戦争」の記事については、「一龍戦争」の概要を参照ください。
- 竹下派の結成のページへのリンク