田中派の旗揚げとは? わかりやすく解説

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田中派の旗揚げ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 05:43 UTC 版)

木曜クラブ」の記事における「田中派の旗揚げ」の解説

田中角栄1972年5月15日沖縄返還協定発効が、佐藤栄作首相引退花道になると踏んでいた。沖縄本土復帰照準合わせて田中クーデター計画実行に移る。同年5月9日佐藤派内の田中角栄擁立グループ台東区柳橋料亭「いな垣」に集まった当日田中本人会場に顔を出さず目白台自宅電話前に座っていた。料亭供待ち部屋秘書早坂茂三小窓を少し開け出席者現れるたびに田中連絡をした。最後参加者告げると田中は「よし、予定どおりだ。これで結構」と答えた。 この日、佐藤派102人から、衆議院議員40人(うち代理人7人)、参議院議員41人(うち代理人5人)が集結合計81人の大派閥となり、これを機に佐藤派田中派福田派分裂した同年7月5日行われた自民党総裁選挙には田中福田大平正芳三木武夫三角大福)が立候補し田中当選した7月7日田中内閣総理大臣に就任したことから、「七日会」として正式に田中派旗揚げされ、西村英一会長就任した派閥特色としては、田中首相在任中日中国交正常化成し遂げたこともあり、台湾中華民国)とは距離を置く親中派多かったまた、道路郵政などの公共事業による集金集票力のある利権と深い関係を持つ族議員圧倒的に多かったまた、議員数の増加によって自民党内の全ての政策部会族議員化した田中派所属議員抱えるようになると、地方自治体の首長などから「田中派所属すれば地元からのあらゆる陳情を派内で処理して貰える」という暗黙の了解形成されるようになり、田中内閣崩壊後求心力維持し続け効果を齎した。田中は自らの派閥総合病院評した1976年派閥オーナーである田中と、派閥幹部橋本登美三郎が、ロッキード事件関与したとして逮捕される逮捕直後田中自民党離党届と七日会退会届を提出する取り調べの後に保釈され田中は、刑事被告人自民党籍を持たない無所属衆議院議員いわゆる自民党周辺居住者」)ながら派閥領袖として田中派通じて裏舞台から政界影響力維持し、なおも実質的な七日会オーナーであり続けマスコミからは「闇将軍」と呼ばれた田中田中派世間から厳し目を向けられたこの時も派閥からの脱落者は一名出さず田中派結束強さを示す。しかし、これは裏を返せば田中突いた反目すれば、政治生命を脅かす報復待っていることの表れとも見られた。この時の選挙初当選した相澤英之田中派入り断ったため長く冷遇されといわれる。[要出典]。

※この「田中派の旗揚げ」の解説は、「木曜クラブ」の解説の一部です。
「田中派の旗揚げ」を含む「木曜クラブ」の記事については、「木曜クラブ」の概要を参照ください。

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