田中派から竹下派へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:10 UTC 版)
羽田は田中派の中堅議員として、次第に実力を蓄えていくが、一方で派内の世代交代を意識するようになっていった。1985年(昭和60年)2月、竹下登による田中派の派中派・創政会に参加する。田中は2月27日脳梗塞で倒れるが、最後に政治家として公の場で発言したのは、羽田のパーティーにおいてであった。竹下派結成に際しては、竹下派七奉行の一人に数えられ、金丸信から「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と称される。1987年(昭和62年)11月、中曽根康弘の後継指名を受けた竹下登が自民党総裁に就任し、竹下内閣が成立する。1988年(昭和63年)12月27日、竹下改造内閣では再び農水大臣に就任する。しかしリクルート事件、消費税導入による世論の逆風を受け、竹下内閣は1989年(平成元年)に退陣した。
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