総理大臣時代とは? わかりやすく解説

総理大臣時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:00 UTC 版)

山本権兵衛」の記事における「総理大臣時代」の解説

第1次山本内閣」および「第2次山本内閣」も参照 1913年大正2年)、同じ薩摩閥の元老大山巌支持山本組閣の大命が下る。松方正義1898年明治31年1月辞任して以来15年振り薩摩出身者であり、2月20日政友会与党として内閣総理大臣に就任した。 6月文部省官制改正し内務省宗教局扱っていた宗教行政を、新設文部省宗教局移管し 、このことで当時行き詰まっていた皇道宣布運動再度推進した第1次山本内閣は、軍部大臣現役武官制事実上廃止し、それ以後陸軍大臣決まらないので組閣出来ないといった、軍部横暴抑止された。しかし、ドイツ国内事件からシーメンス事件検察によって調査され海軍高官への贈賄疑惑をめぐり内閣瓦解し1914年大正3年4月16日総辞職した次の第2次大隈内閣海軍大臣となった八代六郎は、山本斎藤実予備役編入した。 井上良馨東郷平八郎の両元帥は、この人事に反対するも、山本人事海軍大臣専管事項であり、将来人事行政重鎮達が口を挟む悪例残さないために、素直に大臣命令従い1914年大正3年5月11日予備役となったその後第一次世界大戦その後海軍軍縮にも海軍長老として公的な発言は全くしていない1922年大正11年)の高橋内閣総辞職の際、元老一人西園寺公望病中であり、松方正義は、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)より枢密院議長清浦奎吾とともに山本協議加え許可得た三者協議により加藤友三郎大命降下することとなったが、これは松方宮内大臣牧野伸顕はじめとする薩摩閥が、山本将来元老とするための措置であったともされる一方で西園寺山本宮中接近することを警戒し山本枢密院議長就任に対して反対している。 関東大震災被害もまだ明けぬ1923年大正12年9月2日加藤友三郎首相急死に伴い、約9年の時を経て同じく海軍出身山本再度組閣命じられた。推薦行ったのは西園寺であり、「来るべき総選挙公平に行はしめ、財政行政整理断行せしむる」ためであるとされた。 山本帝都復興院総裁後藤新平任命して東京復興事業を行う一方普通選挙実現に動くなどした。加藤友三郎内閣から引き継いだ大臣には、女婿である海軍大臣財部彪もいた。しかし同年12月27日起きた摂政宮共産主義者難波大助狙撃され虎ノ門事件政治的責任を自ら取り辞表提出した摂政宮元老辞表却下するなどして慰留したが、翌1924年大正13年1月7日内閣総辞職した

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