総理大臣筆頭秘書官の妻へ
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「榎本三恵子」の記事における「総理大臣筆頭秘書官の妻へ」の解説
1966年の秋、店の裏通りのラーメン屋で一人食事をしていた時に、当時自民党幹事長だった田中角栄の秘書の榎本敏夫に見初められる。店は『来々軒』で、食べ終わって店を出ると連れの一人が追いかけてきて、働いている店名を聞かれたという。榎本敏夫を見た第一印象は「ちっちゃい人だなあ」というものだった。「君は背が大きい。僕はちっちゃい。だから相性が合うんだ」と言われた。一度の離婚歴があった榎本敏夫は、翌日から店に通い始めてカウンターで水割りを二、三杯飲んでいくのが日課になり、ある日、店に名刺を置いていった。その名刺の肩書には『自由民主党幹事長 田中角栄第一秘書官』と書かれており店内が一気にどよめいた。そして後日、榎本敏夫は三恵子に「僕の秘書にならないか」と突然持ち掛け、履歴書を書くように言いつけ、てっきり就職のためと思い込んだ三恵子が榎本宅へ履歴書を届けに行ったところ、いきなり向こうの両親に引き合わされ、結婚のための面談となる。その時、榎本敏夫は40歳、三恵子は18歳で22歳も年の離れているということで結婚は家族から猛反対されるが、榎本の「田中先生を総理大臣にする」という熱意に三恵子は打たれて結婚に踏み切る。また、中学生のころに父を亡くしていた三恵子は、「自分は父性愛に飢えていたから」と、年の差のある夫に惹かれたことの理由として上げている。式はその年の12月9日、田中角栄の仲人で、ホテルニューオータニで行われ、籍は14日に入れたが、その入籍の日まで榎本敏夫は三恵子の18歳という年を知らなかったという。 1968年8月9日に長男、1971年5月に次男、1973年1月に三男を出産する。 1972年7月5日、田中角栄が自由民主党総裁に当選し、総理大臣筆頭秘書官の妻となった三恵子は電話で報告を受け、涙を流した。そして陳情に来る人物や財界の頂点にいる側近などに対して、夫と共に接触して付き合っても問題ないかどうかなどを忠告するなどの役目を負う。後に丸紅ルートと言われ、裁判でも大きな焦点となる5億円の受け渡しを行った、大手総合商社の丸紅のIに関しては、付き合いは止めて欲しいとの忠告はその時すでにしていた。その時の榎本敏夫の返事は「君がそう思うなら間違いないだろう」というもので、それ以来、Iからの電話は家へかかって来なくなった。
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