総理大臣兼外務大臣とは? わかりやすく解説

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総理大臣兼外務大臣(満州国承認から国際連盟脱退まで)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:07 UTC 版)

斎藤実」の記事における「総理大臣兼外務大臣(満州国承認から国際連盟脱退まで)」の解説

斎藤内閣」および「帝人事件」も参照 1931年昭和6年9月満州事変勃発し、翌1932年昭和7年5月15日犬養毅首相海軍若手将校らにより暗殺された(五・一五事件)。 当初犬養首相後任は同立憲政友会次期総裁から選出されるものと目されており、政友会右派森恪らが司法官僚平沼騏一郎次期総裁に担ぐ動きもあったが、結果的に鈴木喜三郎鳩山一郎義弟)が次期総裁選出された。 元老西園寺公望当初政党内閣継続の為、鈴木次期首相に推薦する意向であり、陸相荒木貞夫19日鈴木会見し鈴木内閣発足反対しない」と発言した報じられた。だが翌20日陸軍少壮将校がこれに反発し政友会単独内閣成立強く反対していることが報じられ不穏な情勢となった21日西園寺重臣元帥意見聞いた上で鈴木ではなく海軍穏健派長老である斎藤実推薦する事にした。斎藤は英語に堪能で、条約派属す国際派海軍軍人であり、粘り強い性格強靭な体力本音明かさぬ慎重さ評価されていたという。 同26日、第30代内閣総理大臣に就任同年7月6日まで外務大臣兼任)。 (詳細五・一五事件参照。) 齋藤内閣立憲政友会立憲民政党双方から大臣迎えた挙国一致内閣連立内閣)であり、蔵相留任した高橋是清の下、積極財政継続。翌1933年昭和8年)には他の主要国先駆けて昭和恐慌前の経済水準回復し国内安定努めた軍部方針とも大きく対立はせず、1932年昭和7年9月15日日満議定書締結し満州国承認その後国際連盟総会にて日本側の主張却下されると、1933年昭和8年3月27日国際連盟脱退日本政府として表明した。しかし一部軍人からは、元来リベラル派である斎藤への反感や、陸軍予算折衝荒木陸相出し抜いた高橋蔵相への反発などから、閣僚スキャンダル暴きが行われた。 そして1934年昭和9年)、帝人事件勃発鈴木商店倒産に伴い台湾銀行担保とされた同子会社帝国人造絹糸帝人株式22をめぐり、財界グループ番町会」が買い戻し依頼を受け、その後帝人増資株価利益上げた問題で、帝人社長高木復亨や番町会の永野護台湾銀行頭取島田茂黒田大蔵次官など16名が起訴された。斎藤内閣綱紀上の責任理由に、同年7月8日総辞職した同事件は、265回にわたる公判結果1937年昭和12年10月全員無罪判決を得るという異例経過たどったことから、検察内の平沼騏一郎派、陸軍将校立憲政友会右派らが倒閣為に仕組んだ陰謀であった見られている。

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