小嶋和司と芦部信喜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 00:28 UTC 版)
今の学年制で言えば小嶋と芦部は同学年であるが、小嶋は芦部より2年早く東京帝国大学法学部を卒業している。芦部が宮沢俊義教授を指導教官として助手になったとき、小嶋は大学院特別研究生として以前より宮沢の指導を受けていた。そうした関係から小嶋は芦部に対して憲法研究の手ほどきを施した。 小嶋は学問に対する生真面目さから師である宮沢に対する批判をも辞さなかったことから、次第に宮沢と小嶋の関係は悪化し、結局、小嶋は宮沢の後継者となれなかったと言われる。宮沢は、親友であった尾高朝雄の弟子である小林直樹に憲法第一講座を、芦部に憲法第二講座を継承させる。 小嶋と芦部には、憲法研究における微妙な棲み分けがあった。主に人権論と憲法訴訟の研究へ進んだ芦部憲法学と、主に財政・明治憲法の研究へ進んだ小嶋憲法学は、直接的には対立しなかった。小嶋と芦部の意見が真っ二つに分かれたのは、1985年の中曽根康弘総理大臣時代に藤波孝生官房長官の私的諮問懇談会のメンバーとして討議した靖国神社公式参拝問題であった(参考文献:高見勝利『芦部憲法学を読む』、「〔座談会〕芦部信喜先生の人間と学問」ジュリスト№1169)。
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