調整型政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 03:55 UTC 版)
1977年から軍最高司令官のクリエンサック・チョマナン(英語版)(在任1977-1980年)による政権が敷かれ、民主化の時代は終ったが、その政治は調整型の姿勢を取り民主化勢力との調和が図られた。一方、隣国カンボジアに誕生したポル・ポト政権は、1977年よりベトナム国境で紛争をしかけ、1977年末にはベトナムと国交を断交した。その後、1978年末から1979年初頭にベトナムがカンボジアに進軍したことから、多くのカンボジア難民がタイに逃れた。同じく1979年にはベトナムからのボートピープルも急増した。 次いで、陸軍司令官であったプレーム・ティンスーラーノン(在任1980-1988年)政権時代は「半分の民主主義」などと称されるように、サリットのタイ式民主主義と同様、国王や軍の存在を前提としつつも議会制民主主義を重視し、タイ共産党勢力とも調整を図った。これにより2回の軍部急進派によるクーデター未遂事件などがあったものの比較的平穏であり、経済成長への道筋をつけた。ただし、ラオスとの国境においては、1980年6月14日、メコン川を挟んだタイ・ラオスの国境警備隊の間にて銃撃事件が発生したことより、タイは解除に動きつつあった国境封鎖に対して、再び歯止めをかけた。加えて1984年5月には、ラオスのサイニャブーリー県とタイのウッタラディット県の狭間に位置するラオス領の3つの村をタイ国軍が不法に占拠しているとして、領土権を巡る国境紛争が勃発した(三村事件)。タイは同年10月15日、国軍が撤兵したとの声明を発表し、三村事件はいったん沈静化した。その後、1987年12月に再びタイ・ラオス国境付近で両軍が衝突し、翌1988年2月まで戦闘状態に陥ったが、両国代表団により和平交渉が実施され、停戦協定が結ばれた。
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