池田信用組合理事長就任から即席ラーメン開発編(昭和32年 - 昭和33年夏)
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「まんぷく」の記事における「池田信用組合理事長就任から即席ラーメン開発編(昭和32年 - 昭和33年夏)」の解説
萬平が理事長に就任してから8年、一家は池田市内の一軒家で安定した生活を送っていた。そして子供が学齢期になり暇をもて余す様になった福子は近所のパーラーでパートタイマーとして働き始めていた。ある日、女学校時代からの親友・桑原敏子から、知り合いの町工場「織田島製作所」への融資を萬平に頼むよう依頼される。織田島製作所が「万能調理器」(ミキサー)を開発中であることを知った萬平は、100万円の融資を即決しただけでなく、毎日定時で退社しては織田島製作所に通い、開発協力に没頭する。しかし池田信用組合の親銀行である梅田銀行から神武景気の終了を受け、全ての融資案件を停止するよう通告される。萬平は織田島製作所へ融資継続させたいため、自宅の土地建物を担保に入れることを鈴と福子に提案。鈴は猛反対するが、福子は萬平の本来やりたいことをさせたい願いから、承諾する。そんな萬平の熱意や銀行の担当者に織田島製作所の開発を見せたことで、一時は融資の存続が決まったものの、梅田銀行の人事異動により一転。融資金の回収を命じられ、立花家の資産も差し押さえられ、信用組合の窓口では取り付け騒ぎが起きる。最終的に信用組合と池田の産業を守るため、萬平は梅田銀行の人間に理事長職を託し、辞任する。 こうして昭和32年(1957年)暮れ、一家は家賃2000円の借家に転居、鈴は香田家に身を寄せる。年が明けて発明家に戻った萬平は、主婦の仕事の軽減に着目した結果、簡単且つ短時間でできるラーメンの開発に乗り出し、裏庭に「即席ラーメン研究所」を設け没頭する。そんな萬平の様子を没落と判断する人々からは陰口を叩かれ、子供たちはいじめに遭うが、萬平の成功を信じて家族一丸で彼を支えて行く。 試行錯誤の末、萬平はラーメンスープを完成させ、次は麺作りに取り掛かるが様々な方法を取り入れてもうまくいかない。そんなある日、福子が敏子からのおすそ分けでもらったエビの天ぷらを揚げているのを見て、萬平は麺のヒントを思いついた。そこで萬平はかつて、ダネイホン作りで世話になった、神部の知人・近江谷を呼び「即席ラーメン研究所」で揚げた麺の成分を調べてもらう。すると、高野豆腐のようにスポンジ状になった麺の断面が顕微鏡で見て明らかに。ついにラーメンを完成し、香田家・パーラー『白薔薇』で試食会を行う。お湯を注ぎ、3分待ちできあがったラーメン。各所での試食会は、大成功に終わった。夜になり、真一が訪ねてきてラーメンを試食した。ラーメンを食べた真一は「革命的な発明だ」と絶賛。彼は池田信金を退職して萬平のラーメン作りに携わりたいと言い出した。さらに、世良も訪れ世良商事で売り出させて欲しいと切り出した。本格的な量産体制が始まり、源と幸も学校から帰ってきてからラーメンの包装を手伝うように。発売日目前、福子が過労で倒れてしまい事態を重く見た鈴が再び立花家で同居することに。彼女も、ラーメン作りを手伝うように。鈴が同居するようになって、福子の負担は半減された。 昭和33年(1958年)夏。ついに世界初の即席ラーメン・『まんぷくラーメン』が発売されたのであった。大急百貨店で試食販売を始めたものの、中々『まんぷくラーメン』が売れず頭を痛める一同。そんなある日。福子が香田家でテレビを見ているとコマーシャルが流れたことことで自らコマーシャルを作ることを思い立つ。神部がコマーシャルの絵コンテをいくつか提案し、福子と源・幸がコマーシャルに出演することに。ようやく売り上げが軌道に乗り始めたものの、大問題が発生。朝、世良が血相を変えて「まんぷく食品株式会社」に現れ、「『まんぷくラーメン』の模倣品が発売されている」と知らせた。驚く萬平たち。その中の一つが、『まんぷくラーメン』と味が似ているというのだ。最近になって急に退職した元社員がいたことを思い出した真一。さらに、福子が出演したコマーシャルまで模倣されたことを知り怒りが収まらない萬平。真一と世良が件の食品会社に怒鳴り込み、抗議するが「テイコー食品」社長・猿渡は開き直り断固拒否。あまりの事態に怒りが収まらない真一。普段声を荒げることがない真一の姿に驚く福子と鈴。萬平は段々と怒りがこみ上げてきた。 後日改めて、「テイコー食品」を訪れ厳重に抗議した萬平たちだったが、相変わらず開き直る猿渡に対し、ついに萬平が怒りを爆発。事態を重く見た萬平は特許を出願。ところが、「テイコー食品」も模倣品・『本家まんぷくラーメン』の特許を出願していると知り、驚く萬平。だが、即席ラーメンの特許を認められたのは「まんぷく食品株式会社」だった。萬平は「一人勝ちだ!!」と喜ぶが、福子は複雑な心境に。こうして、模倣品は淘汰されたものの、昭和34年(1959年)、買い物に行った福子は未だに粗悪品の即席ラーメンが発売されている現状を目の当たりにし、「このままでいいんですか?」と萬平を諌めた。福子に諌められ、スーパーで粗悪品の即席ラーメンが安く売られていることを目の当たりにした、萬平は特許を他社に公開することを決断。各社を回るも、相手にされず途方に暮れる萬平。ついに福子は世良に相談。そこで世良は、元食糧庁長官だった衆議院議員・土井垣に相談。土井垣は萬平に対し、「即席ラーメンの協会を設立する」という提案を。こうして、即席ラーメン協会が設立され萬平は初代会長に就任。さらに、かつて銀行の抵当に入れた元いた家に現在暮らしている人が引っ越すことになり、再びあの家で暮らそうと切り出した福子だった。
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