永田鉄山暗殺とは? わかりやすく解説

永田鉄山暗殺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 04:42 UTC 版)

相沢事件」の記事における「永田鉄山暗殺」の解説

8月12日午前9時30分頃陸軍省到り相沢が一番尊敬していた整備局長山岡重中将(陸士第15期陸大第24期)を訪ね談話中に給仕通して永田少将在室確かめた後、午前9時45分頃、軍務局長室に闖入して直ち軍刀抜いて永田に切りかかり、次いで刺突加えて殺害した決行整備局長室に戻って永田天誅加えた」と告げた山岡予想外表情をしたが、永田刺突した際に刀身持ったため出血している左手ハンカチ縛り、たまたま来室していた大尉医務室案内させた。途中永田局長の一の子分といわれた新聞班長根本博大佐(陸士第23期陸大34期)が駆け寄ってきて、黙って固い握手交わしたまた、調査部長山下奉文少将(陸士18期陸大28恩賜)が背後から「落ち着け落ち着け静かにせにゃいかんぞ」と声をかけた。こうした陸軍省内の様子見てありがたい、維新ができた」と内心感激した事件受けて綱紀粛正のため陸軍省では9月から10月にかけて首脳部交代が行われた。林銑十郎陸相橋本虎之助陸軍次官橋本群軍務課長退任し川島義之陸相古荘幹郎陸軍次官今井清軍務局長村上啓作軍務課長布陣となったウィキソース相沢事件第1審判決原文あります第1師団軍法会議による公開裁判が行われ、1936年昭和11年1月28日第1回公判開始された。裁判長判士陸軍少将第一旅団長佐藤正三郎検察官法務官島田朋三郎弁護人弁護士法学博士鵜沢総明特別弁護人陸軍歩兵中佐満井佐吉であった公判は、問題教育総監更迭関し勅裁受けている大正2年の省部規定蹂躙した軍首脳部行動統帥権干犯となるや否や絞られ陸相行動統帥権干犯となるか、陸相にあえてそれを行わせた永田軍務局長陰謀事実あったかどうかが、事件焦点となった軍法会議2月12日第6回公判において、陸軍次官橋本虎之助中将を、2月17日には陸軍大臣林銑十郎大将を、2月25日には前教育総監真崎甚三郎大将証人として喚問し軍機保持上公開を禁止した。しかし、三証人とも、職務として関与したのであるから勅許をまたずしては証言できない、と肝心の点については証言拒否した沢、満井両弁護人勅許仰いで真崎大将を再喚問するよう申請するとともに斎藤実内府池田成彬木戸幸一井上三郎唐沢俊樹警保局長、下園佐吉牧野内府秘書)、太田十二証人喚問することを申請した軍法会議勅許奏請の手続きを執らなければならない段階となり、軍中央部も反対することはできなくなった。ところが2月26日払暁二・二六事件勃発した二・二六事件により一時中断されたが、4月22日第11回公判再開した裁判長判士陸軍少将内藤正一変更され裁判官変更があった。また、弁護人菅原弁護士と角岡知良弁護士に変更となった裁判長公開停止宣言し一般公衆退廷命じた5月1日第14回公判終了まで非公開のままで、証拠申請ことごとく却下された。 同年5月7日死刑判決言い渡された。翌8日上告したが、6月30日上告棄却言い渡され死刑判決確定した1審2審とも判決内容事前に漏れていた。 同年7月3日午前5時、東京衛戍刑務所内において、判決謄本送達さえ行われず弁護人立ち会い許されず、銃殺刑執行された。 鷺宮相沢家では供養が行われた。夜になって荒木大将弔問した。7月5日真崎大将弔問した。寺内陸相花輪供えようとしたが、側近遮られたという。 なお、事件発生時は永田軍務局長室で陸軍内部綱紀粛正過激さを増していた皇道派青年将校対す抑制策に関する打ち合わせ行っており、兵務課長山田長三郎大佐東京憲兵隊長・新見英夫大佐在室していた。新見大佐怪文書について報告しており、軍務局長の上には、「粛軍に関する意見書」が開かれていた。相沢襲撃に気づいた新見大佐は、永田かばって相沢斬りつけられ、重傷負ったが、山田大佐局長室から姿を消していた。この事情について山田大佐事件後、「自分軍刀取り兵務課長室へ走って戻り軍刀持って局長室にとって返した時には局長殺害され相沢立ち去った後だった」と弁明したが、軍内部及び世間から「上官見捨てて逃げ去った軍人にあるまじき卑怯な振る舞い」と批判されさらには相沢通じていたのではないかという噂までささやかれる至った新見大佐相沢中佐入室発見遅れた理由については、戦後新見大佐治療あたった長田眼科長田医師視野狭窄について証言している。(岩田礼著「軍務局長斬殺」) また、NHK歴史への招待」(永田軍務局長斬殺 昭和10年1981年6月27日放映)でも長田医師本人出演し証言している。) 新見大佐当初誘導尋問のような事情聴取山田大佐在室証言をしたが、しばらくして山田大佐在室については確認していないと証言訂正している。山田大佐事件から約2ヶ月後10月5日に「不徳の致すところ」という遺書残し自宅自決した永田殺されたとき大川周明は「小磯バカからこんなことになった。あの書類さえ始末しておけば永田殺されずにすんだものを……」と嘆息したという。 社会民衆党亀井貫一郎は、「永田在世中、議会政党、軍、政府の間で、合法あるいは非合法による近衛擁立運動について覚書作成され、軍内の味方カウンター・クーデター考えていた。だから右翼右翼クーデター考えてもよい。どっちのクーデター来て近衛押し出そうと、ここまで考えていたということ永田殺され原因のひとつ」ということ述べている。

※この「永田鉄山暗殺」の解説は、「相沢事件」の解説の一部です。
「永田鉄山暗殺」を含む「相沢事件」の記事については、「相沢事件」の概要を参照ください。

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