山口弘隆とは? わかりやすく解説

山口弘隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/03 08:24 UTC 版)

 
山口 弘隆
時代 江戸時代
生誕 慶長8年6月11日1603年7月19日
死没 延宝5年9月5日1677年10月1日)
改名 国丸→弘隆
官位 従五位下但馬守、修理亮
常陸牛久藩
父母 父:山口重政
母:小坂雄吉の娘
兄弟 重信、重長、弘隆、重恒
正室:諏訪忠恒の娘
重貞(長男)、政信(次男)、重治(三男)、重富(四男)、娘(久永勝晴正室のち谷頼衛室)
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山口 弘隆(やまぐち ひろたか)は、常陸牛久藩の第2代藩主。初代藩主・山口重政の四男。母は小坂雄吉の娘。正室は諏訪忠恒の娘。子は山口重貞(長男)、山口政信(次男)、山口重治(三男)、山口重富(四男)、娘(久永勝晴正室のち谷頼衛室)。官位は従五位下。但馬守。修理亮。幼名は国丸。

経歴

慶長18年(1613年)、父と長兄・重信改易された後、重信は大坂の陣で戦死したため、嫡子となった。元和8年(1622年)、父や弟の重恒と共に本多忠政に身柄を預けられたが、寛永5年(1628年)に赦免されて父は牛久に1万5000石を領する藩主となった。そして寛永12年(1635年)に父が死去したため、その跡を継いだ。このとき、弟の重恒に5000石を分与している。水口城の城番を務めて、延宝5年(1677年)9月5日に75歳で死去し、跡を長男・重貞が継いだ。法号は一灯見性弘隆院。墓所は東京都港区南麻布の曹渓寺。

系譜

父母

正室

側室

  • 永井氏

子女

  • 山口重貞(長男)生母は正室
  • 山口政信(次男)
  • 山口重治(三男)
  • 山口重富(四男)
  • 久永勝晴正室後に谷頼衛室






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