五大老・秀頼の傅役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 13:46 UTC 版)
慶長3年(1598年)になると、秀吉と共に利家も健康の衰えを見せ始めるようになる。3月15日に醍醐の花見に妻のまつと陪席すると、4月20日に嫡子・利長に家督を譲り隠居、湯治のため草津に赴いた。この時、隠居料として加賀石川郡・河北郡、越中氷見郡、能登鹿島郡にて計1万5千石を与えられている(加賀藩歴譜)。しかし、実質的には隠居は許されず、草津より戻った利家は、五大老・五奉行の制度を定めた秀吉より大老の一人に命じられる。しかも家康と並ぶ大老の上首の地位であった。なおこの政治体制を「秀吉遺言覚書体制」と言う。そして8月18日、秀吉は、利家らに嫡子である豊臣秀頼の将来を繰り返し頼み没する。 慶長4年(1599年)元旦、諸大名は伏見に出頭し、新主秀頼に年賀の礼を行った。利家は病中ながらも傳役として無理をおし出席、秀頼を抱いて着席した。そして、10日、秀吉の遺言通り、家康が伏見城に利家が秀頼に扈従し大坂城に入る。以後、秀頼の傅役として大坂城の実質的主となる(言経・利家夜話)。
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