千葉時胤とは? わかりやすく解説

千葉時胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/12 07:11 UTC 版)

千葉 時胤(ちば ときたね)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人千葉氏第7代当主。『千葉大系図』によれば、千葉成胤の三男とされてきたが、近年になって千葉胤綱(成胤長男)の長男とする見方が有力視されている[2]


注釈

  1. ^ 得宗家は本来ならば将軍の下で一御家人という立場にありながら、烏帽子親関係による一字付与を利用して、他の有力御家人を統制したことが指摘されており、地域棟梁格の有力御家人であった千葉氏もその統制下にあった[3]。その統制の主体である烏帽子親、すなわち有力御家人が一字を賜る相手が将軍から得宗家へ移行したという見解も示されており[4][5](→詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)、泰胤北条泰時頼胤北条時頼宗胤胤宗兄弟が北条時宗胤貞貞胤北条貞時高胤北条高時から一字を拝領したと考えられる[6]。更に、足利氏において通字の「氏」が付かない足利家時について「時」の字が北条氏からの偏諱であることが指摘されており[7]、「時」を通字としない千葉氏においては、本項の時胤がそれと同じケースと考えられ、年代的に北条泰時から賜ったものとみられる。但し、紺戸淳の論文によれば、『千葉系図』(『続群書類従』第六輯下に所収)で時胤の註記に仁治2年に42歳で没したという記載がみられ、その場合生年が正治2年(1200年)となるため、元服1209-14年の間となり、「時」の字を与えたのは泰時ではなくその父・義時ではないかとしている[8]。以上、千葉氏当主が北条氏と烏帽子親子関係を結んだ旨は服部英雄が明確に示している[9]

出典

  1. ^ 『奥山庄史料集』所収『桓武平氏諸流系図』より。
  2. ^ 千葉県史料研究財団 編「第1編第2章 房総における中世的世界」『千葉県の歴史 通史編 中世』千葉県、2007年、130-138頁。 
  3. ^ 菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』汲古書院、2011年。
  4. ^ 角田朋彦「偏諱の話」『段かづら』三・四、2004年。 
  5. ^ 山野龍太郎 著「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年、163頁。 
  6. ^ 紺戸 1979, p.15系図・p.18.
  7. ^ 小谷俊彦 著「北条氏の専制政治と足利氏」、田中大喜 編『下野足利氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉、2013年、131頁。 
  8. ^ 紺戸 1979, p. 18.
  9. ^ 服部英雄、肥前千葉氏調査委員会「中世小城の景観・海から考える」『中世肥前千葉氏の足跡 : 小京都小城の源流』佐賀県小城市教育委員会、2011年。hdl:2324/20437NCID BB05770990https://hdl.handle.net/2324/20437 
  10. ^ 『香取文書』嘉禎四年(推定)正月二十三日関東御教書写(『鎌倉遺文』7-5203)
  11. ^ 『香取文書』嘉禎四年三月十五日関東御教書写(『鎌倉遺文』7-5218)
  12. ^ 上杉和彦「鎌倉将軍上洛とその周辺」『古代文化』43巻11号、1991年。 /所収:上杉和彦『鎌倉幕府統治構造の研究』校倉書房、2015年。ISBN 978-4-7517-4600-4 
  13. ^ 丸井敬司『千葉氏と妙見信仰』岩田書院、2013年、19-35頁。ISBN 9784872947946 


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