隆信追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 14:46 UTC 版)
しかし、隆信の宗家相続に対し、宗家の重鎮・土橋栄益が、豊後国守護職・大友宗麟の支持を得て、反旗を翻す。天文20年(1551年)、ときに大内義隆が家臣陶晴賢によって討たれた直後で、後ろ盾を失った隆信は筑後国に亡命する災難に遭う。2年後、隆信は復権することになるが、このときも、鍋島清房と尾張守兼清が、佐賀平野南部の土豪・地侍らと連携し、隠密に隆信帰還の準備を進めた。隆信は筑後国を出発し、海路、肥前国佐嘉郡河副郷に上陸した。河副郷には、他の土豪・地侍とともに石井和泉守忠清が一族を率いて参陣し、そのまま佐賀城に向けて進発した。途中、敵方である高木氏や八戸氏に占拠されていた居城・飯盛城において、石井三河守義昌・次郎兵衛忠晴父子が指揮する一隊が奮戦して、城を奪還。さらに進撃を続け、遂には佐賀城を回復した。さらに、隆信は小田政光が拠る蓮池城に攻め込み、石井三河守忠朝が敵方の勇将・江口源世入道を一騎討ちで戦いを挑み、これを討ち取るなど、石井氏は隆信復権に多大な功績を挙げた。
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