蓮池城址と蓮池公園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 19:25 UTC 版)
早くに廃城になった崎村城・蒲田江城の遺構がほとんど現存しないのに対し、明治期まで藩主の居住する「御館」があった蓮池城の跡はさまざまに遺されている。曲がりくねって旧城の堀として使われていた佐賀江は1980年代に流路が改修されて直線化されたが、旧蓮池城付近だけはそのまま遺され、現在は蓮池公園の堀として利用されている。 城内には、蓮池藩8代藩主鍋島直与が隠居後に造営した回遊式庭園があり、「天賜園」と呼ばれていた。天賜園は風光明媚な名園として知られていたが現存せず、旧蓮池魚町にある浄国寺に収蔵されている『天賜園絵図』によってのみ往時の様子をうかがい知ることができる。現在、天賜園の跡地に残る公民館の屋根瓦には、その名が刻まれたものが遺されている。 蓮池公園は、旧藩時代には練兵場だった場所である。廃藩置県と蓮池県の消滅(伊万里県への統合)の結果、旧藩主の鍋島直紀は当地を去り、東京の私邸に移った。その後、明治10年(1877年)に火災があり、御館などを焼失した。地元の住民によってその跡地に築山や池が作られ、天賜園にあった鍋島直与の石碑なども移築された。また、旧藩時代の歴代藩主を祀るために蓮池神社が建立された。地内は鍋島子爵家の所有地だったが、子爵家の寄付により国有地となり、昭和30年(1955年)に蓮池町が佐賀市の一部となってからは市の都市計画施設として整備され、蓮池公園となった。蓮池公園は桜の名所として知られ、花見の時期には縁日や見世物小屋、オートバイサーカスなどが出店して賑わったという。 公園内に造られた池は佐賀江から引いた水を貯めており、かつては南に隣接する農地15ヘクタールあまりの灌漑に用いられていた。公園は約3ヘクタールの広さをもっていて、佐賀江は公園の三方を取り囲むように蛇行していたが、1980年代の佐賀江の河道改修の結果、現在は川がかつての公園の中央を直線的に横切る形となり、公園は川の南岸と北岸に分断されている。 蓮池公園には樹齢250年(1980年代当時)ほどと推定されるナンキンハゼの大木(幹周り2.8メートル)があった。この木は蝋をとるために中国から伝来して享保年間(1716-1735年)に植樹されたものと考えられている。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この木は「蓮池公園のナンキンハゼ」として佐賀県の巨木に指定されていたが、平成3年(1991年)の台風の際に倒れてしまい、現存しない。[要出典]
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