蓮池藩の成立
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蓮池藩歴代藩主 就任年 備考 1 鍋島直澄 寛永19年 1642年 佐賀藩藩主鍋島勝茂の5男 2 鍋島直之 寛文5年 1665年 先代・直澄の次男 3 鍋島直称 宝永5年 1708年 先代・直之の弟・養子 4 鍋島直恒 享保2年 1717年 先代・直称の次男 5 鍋島直興 寛延3年 1750年 先代・直恒の長男 6 鍋島直寛 宝暦7年 1757年 先代・直興の弟・養子 7 鍋島直温 安永3年 1774年 先代・直寛の長男 8 鍋島直与 文化13年 1816年 佐賀藩主鍋島治茂の7男先代・直温の養子 9 鍋島直紀 弘化2年 1845年 先代・直与の長男廃藩置県により知藩事となる 佐賀藩では、佐賀城・藩主直茂を中心に、周辺の諸城に直茂の子や弟をたて、佐賀藩の支藩とした。庶長子の元茂は小城藩、弟の鍋島忠茂は常広城に入って鹿島藩となり、そして5男の鍋島直澄が蓮池城に入り、蓮池藩となった。 これら3つの支藩のうち、蓮池藩の成立は最も遅く、寛永16年(1639年)とされている。蓮池藩の成立までには紆余曲折があった。 初代藩主の鍋島勝茂には、元茂という長男がいた。しかし勝茂が慶長14年(1609年)に徳川家康の養女菊姫を娶ると、菊姫の子鍋島忠直(勝茂の4男)が嫡男とみなされるようになった。ところが、2代佐賀藩主に就くと目されていた忠直が、寛永12年(1635年)に若くして病死してしまう。忠直の長男鍋島光茂はまだ2歳と幼少だった。そこで勝茂は、菊姫の子で忠直の実弟にあたる鍋島直澄(勝茂の5男)を後継者にするため、忠直の未亡人・恵照院(その父は徳川家康の孫・松平忠明)と直澄を結婚させた。 しかし目論見に反し、鍋島家の家中からこの相続には異論が出た。代替案として光茂と直澄で佐賀藩を等分することも検討されたがこれも賛同を得られなかった。そのため、蓮池城跡に館を再建して直澄を移し、分家させて支藩の蓮池藩(約5万3000石 )とすることにした。なお、館が完成して実際に鍋島直澄が佐賀城三の丸から蓮池城に移ったのは承応3年(1654年)ともされている。 この頃の鍋島家の内情を伝える「蓮池鍋島家文書」(佐賀県立図書館蔵)が伝えられている。島原の乱(1637-1638年)の原城攻めで勝茂が抜け駆けした事情や、蓮池藩主となった鍋島直澄が、16歳年下の甥で佐賀本藩の当主となった鍋島光茂の朝寝坊を諌める内容などが遺されている。 蓮池城の周りには城下町が発展した。もっとも古くからあったのが蓮池本町、江上家種が移ってきたときにできたのが蓮池神埼町と蓮池城原町である。蓮池城原町には職工が集まり、商工業者が集まった蓮池紺屋町、佐賀江に面する船着き場があって魚の集積地がおかれた蓮池魚町、佐賀中心部へ向かう街道筋に形成された蓮池西小路などによって城下町が構成された。
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