鳥取藩仕官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 11:02 UTC 版)
万延元年(1860年)、重太郎は鳥取藩に仕官した。重太郎は鳥取藩士として江戸政界に関わる中で勝海舟の開国論に反感を抱き、文久2年(1862年)に勝邸を訪れ、これを暗殺しようとしたが失敗した。 また、文久4年(1864年)正月から数ヶ月間、生野の変に敗れた勤皇志士・北垣晋太郎、原六郎らを匿い、このことが幕府の知るところとなり道場を探索されそうになった。そのため、重太郎は道場の全員を退去させ、単身、探索方の来場を待つ状態まで追い込まれるが、重太郎の人品を知る老中・板倉勝静が「千葉重太郎は不良の徒に非ざるなり。もし浪士を隠匿するあらば、我親しく招致して諭さんとす、今公武の間疎隔を来さんとす、万一追捕の挙に出ては、彼、もとより剣客塾中の徒と、腕の続かん限り相闘わば、まさに大事に至るべし」としてこれを擁護した。 戊辰戦争では鳥取藩の河田左久馬や、原らとともに志願農兵隊・山国隊の指導に当たった。
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