水戸徳川家から鳥取池田家へ
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「池田慶徳」の記事における「水戸徳川家から鳥取池田家へ」の解説
幕末の尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた水戸思想の主導者・水戸藩主徳川斉昭の五男(庶子)で、母は側室の松波春子。幼名は五郎麿。元服して父斉昭より偏諱を受け昭徳(あきのり)と名乗る。斉昭は「堂上風にて御美男、御品よく、少しく御柔和に過ぎ、俗に申す養子向」と評したようである。 嘉永3年10月29日(1850年12月2日)、鳥取藩主池田慶栄が嗣子なくして急死したことから、幕命によりその養子となる。将軍徳川家慶より偏諱を受けて慶徳に改名、松平相模守を称した。家督を継ぐと藩政改革に着手し、藩校尚徳館を拡充して下士にも通学を許すなど学問を奨励し、藩内に水戸学が浸透した。民意を聞くことに努め、軍制の改革にも力を入れた。嘉永6年(1853年)に、江戸桶町千葉道場を開いた千葉定吉を剣術師範として召し抱えている。
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