水戸徳川家以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 21:51 UTC 版)
常陸は佐竹氏が豊臣秀吉によって54万5,800石の支配をそのまま認められていたが、関ヶ原の戦いの際に佐竹義宣は徳川方に加担しなかったため、慶長7年(1602年)に出羽久保田21万石に減転封された。 佐竹氏の後、水戸城には下総佐倉藩より徳川家康の五男松平(武田)信吉が15万石で入ったが、翌1603年に信吉は21歳で病死した。信吉の死により翌月、家康の十男で当時2歳の長福丸(徳川頼宣)が新たに20万石で水戸に入封する。1604年、5万石の加増を受け25万石となる。 1606年、頼宣は元服した際に常陸介に叙任されているが、1609年に駿河・遠江・東三河(駿府藩)50万石を与えられて転封し、1619年には紀州藩55万石に転封した。頼宣は紀州徳川家の祖となった。 頼宣は2歳から8歳まで水戸藩主であったが、この間一度も水戸に入っておらず、駿府にて家康の膝元で過ごしたといわれている。実務は財政面を蘆沢信重が、行政面を関東郡代伊奈忠次が執った。1609年(1602年、1617年、1621年とも)の秋に、小生瀬村(現:大子町小生瀬)で、年貢を巡る農民と藩役人の行き違いにより、藩が小生瀬村の住人を皆殺しにする事件が起こった(生瀬騒動)。藩の役人が年貢を取りに来て農民は納めたが、また別の役人が年貢を取りに来たこと(年貢の二重取り)に対して怒った農民たちが、後から来た役人を偽物と判断してその一人を殺害した。これに対し10月10日、蘆沢信重が藩兵を出兵させて生瀬村の農民を皆殺しにしたという。この事件に関しては、藩の公式記録には一切触れられず、伝承と関連した地名が残るのみである。
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