明治期の慶徳
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慶応4年2月3日(1868年2月25日)、慶徳は新政府の議定に就任する。翌明治2年2月3日(1869年3月15日)、従二位・権中納言に叙される。5月15日(新暦6月24日)、議定から麝香間祗候に移る。また、戊辰戦争では東北地方に出兵している。6月2日、戊辰戦争の戦功賞典として3万石を賜った。6月19日、版籍奉還により鳥取藩知事に就任した。 鳥取藩の財政難などのこともあり、知藩事の立場にありながら廃藩置県を自ら明治政府に提案した。明治7年(1874年)7月14日、廃藩置県により免職となった。明治8年(1875年)5月27日に隠居し、次男の輝知に家督を譲った。 明治10年(1877年)8月2日、肺炎のため神戸で死去した。8月18日、正二位を追贈された。墓所は弘福寺、大正14年(1925年)に多磨霊園、平成15年(2003年)に鳥取市内の大雲院に移転改葬された。 明治40年(1907年)5月10日、特旨をもって位階追昇された。贈従一位。
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