明治期の河川開発~麻名用水と第十樋門~とは? わかりやすく解説

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明治期の河川開発~麻名用水と第十樋門~

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:14 UTC 版)

吉野川」の記事における「明治期の河川開発~麻名用水と第十樋門~」の解説

明治時代入り近代河川技術吉野川にも導入された。1884年明治17年)に全国河川整備携わったヨハニス・デ・レーケ吉野川視察。翌1885年明治18年)より旧内務省徳島県共同事業として「吉野川改修工事事業」が着工した。だが1888年明治21年7月水害流域大きな被害を受け、原因河川整備不備失策見た住民蜂起して工事事務所襲撃し改修事業中止追い込んだ。この暴動を「覚円騒動」と呼び以降河川改修中断した一方利水に関して1906年明治39年)より麻名用水建設開始された。元来麻植郡名西郡農地開墾藍染から稲作への転換目的に、麻植郡郡長井内恭太郎中心となって1899年明治32年)に「麻植名西郡水利組合」を結成したことが発端である。だが藍染生業とする業者負担金分担反対する者による激烈な反対運動一時頓挫した。ところが1903年明治36年ドイツ化学染料輸入されたことにより藍染業者大打撃を受け、翌明治37年大旱魃も重なって用水開鑿重要性にわかにクローズアップされた。名西郡郡長転出していた井内用水建設総指揮執り1912年明治45年)に完成させた。さらに1914年大正3年)には用水機能補完のための飯尾川引水事業完成吉野川南岸灌漑飛躍的に整備された。 大正時代に入ると「覚円騒動」で中断していた治水事業復活吉野川各地水刎水制であるケレップ水制設置された。また、旧吉野川との分流点・第十堰付近に旧吉野川洪水調節河川維持用水目的1923年大正12年)に第十樋門建設された。当時日本一樋門として吉野川名所となり多く見物客訪れたその後1927年昭和2年)に吉野川築堤完成し第1期吉野川改修事業完了した。この堤防その後流域襲った1934年昭和9年)の室戸台風1945年昭和20年)の枕崎台風さらには吉野川最大出水となった1954年昭和29年)の台風12号1959年昭和34年)の伊勢湾台風1961年昭和36年)の第2室戸台風においても破堤せず洪水防御役立った

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