明治期の河川開発~麻名用水と第十樋門~
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「吉野川」の記事における「明治期の河川開発~麻名用水と第十樋門~」の解説
明治時代に入り近代河川技術が吉野川にも導入された。1884年(明治17年)に全国の河川整備に携わったヨハニス・デ・レーケは吉野川を視察。翌1885年(明治18年)より旧内務省と徳島県の共同事業として「吉野川改修工事事業」が着工した。だが1888年(明治21年)7月の水害で流域は大きな被害を受け、原因を河川整備の不備・失策と見た住民は蜂起して工事事務所を襲撃し改修事業を中止に追い込んだ。この暴動を「覚円騒動」と呼び、以降河川改修は中断した。 一方利水に関しては1906年(明治39年)より麻名用水の建設が開始された。元来は麻植郡・名西郡の農地開墾と藍染から稲作への転換を目的に、麻植郡郡長・井内恭太郎が中心となって1899年(明治32年)に「麻植・名西郡水利組合」を結成したことが発端である。だが藍染を生業とする業者や負担金分担に反対する者による激烈な反対運動で一時頓挫した。ところが1903年(明治36年)ドイツ製化学染料が輸入されたことにより藍染業者は大打撃を受け、翌明治37年の大旱魃も重なって用水開鑿の重要性がにわかにクローズアップされた。名西郡郡長に転出していた井内は用水建設の総指揮を執り、1912年(明治45年)に完成させた。さらに1914年(大正3年)には用水機能補完のための飯尾川引水事業も完成。吉野川南岸の灌漑は飛躍的に整備された。 大正時代に入ると「覚円騒動」で中断していた治水事業も復活。吉野川各地に水刎水制であるケレップ水制が設置された。また、旧吉野川との分流点・第十堰付近には旧吉野川の洪水調節・河川維持用水を目的に1923年(大正12年)に第十樋門が建設された。当時日本一の樋門として吉野川の名所となり多くの見物客が訪れた。その後1927年(昭和2年)に吉野川築堤は完成し第1期吉野川改修事業は完了した。この堤防はその後流域を襲った1934年(昭和9年)の室戸台風や1945年(昭和20年)の枕崎台風、さらには吉野川最大の出水となった1954年(昭和29年)の台風12号、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風、1961年(昭和36年)の第2室戸台風においても破堤せず洪水防御に役立った。
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