文久遣欧使節の絵師
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1862年(文久2年)江戸幕府が派遣した 文久遣欧使節に「船中賄方兼小使者」として随行した。この「船中賄方兼小使者」とは、外国奉行御用商人・伊勢屋の手代と、旅行中の雑用のため伊勢屋が日東銀七匁五分で手配した人足である。しかしこれは名目上のことで、実際は加賀藩や長州藩、佐賀藩などの藩士で、特に軍学や鉱工業の専門家だった。当時、西洋諸国との接触が本格化しつつあり、各藩は海外情報の収集を急ぐべく、藩士に仮の身分を名乗らせ使節団に送り込んだと推測される。徳島藩でも事情は同じで、当時江戸屋敷に勤めていた銃卒の鵬雲を送り出し、西洋式砲術や火器の調査を期待していたと考えられる。反対に幕府が鵬雲の参加を認めたのは、鵬雲に絵心があり、図絵での記録を担当させるためだったと推測され、実際使節団の顔ぶれを見ると鵬雲以外に絵に堪能な人物はいない。 原は雑務に追われながら、海外の情報を藩に報告していたようだ。香港に寄港すると、早速現地の新聞を買い集めて藩邸に送っている。渡欧中、各地で写生を行い、イギリスのテムズ川地下トンネルの断面図や、ロシア、エジプトなどで描いた写生図が遺されていたという。鵬雲が筆写する様子は、現地の新聞でもしばしば取り上げられている。パリ滞在中にはルーヴル宮殿を訪ね、アングルの「グランド・オダリスク」を描き写しており、またフランス人から石版画を贈られている。また、使節団が外国人とのコミュニケーションを取る際、言葉で表現できない部分は鵬雲の絵の説明が役立ったという。ベルリンのホテルでは、下で歩き回っている警官を実物そっくりに描いた絵を、使節団を見に来た大勢の人々を笑わせるために、他の絵と一緒に窓から投げ放ったという。
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