文久遣欧使節の絵師とは? わかりやすく解説

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文久遣欧使節の絵師

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 02:40 UTC 版)

原鵬雲」の記事における「文久遣欧使節の絵師」の解説

1862年文久2年江戸幕府派遣した 文久遣欧使節に「船中賄方兼小使者」として随行した。この「船中賄方兼小使者」とは、外国奉行御用商人伊勢屋の手代と、旅行中雑用のため伊勢屋日東銀七匁五分手配した人足である。しかしこれは名目上のことで、実際加賀藩長州藩佐賀藩などの藩士で、特に軍学鉱工業専門家だった。当時西洋諸国との接触本格化しつつあり、各藩海外情報収集を急ぐべく、藩士に仮の身分を名乗らせ使節団送り込んだ推測される徳島藩でも事情は同じで、当時江戸屋敷勤めていた銃卒の送り出し西洋式砲術火器調査期待していたと考えられる反対に幕府参加認めたのは、絵心があり、図絵での記録担当させるためだった推測され実際使節団顔ぶれを見ると以外に絵に堪能人物はいない。 原は雑務追われながら、海外情報を藩に報告してたようだ香港寄港すると、早速現地新聞を買い集めて藩邸送っている。渡欧中、各地写生行いイギリステムズ川地下トンネル断面図や、ロシアエジプトなどで描いた写生図が遺されていたという。筆写する様子は、現地新聞でもしばしば取り上げられている。パリ滞在中にはルーヴル宮殿訪ねアングルの「グランド・オダリスク」を描き写しており、またフランス人から石版画贈られている。また、使節団外国人とのコミュニケーションを取る際、言葉表現できない部分の絵の説明役立ったという。ベルリンホテルでは、下で歩き回っている警官実物そっくりに描いた絵を、使節団を見に来た大勢人々笑わせるために、他の絵と一緒に窓から投げ放ったという。

※この「文久遣欧使節の絵師」の解説は、「原鵬雲」の解説の一部です。
「文久遣欧使節の絵師」を含む「原鵬雲」の記事については、「原鵬雲」の概要を参照ください。

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