ダンスを守る闘い(1933-1945)
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「戸倉ハル」の記事における「ダンスを守る闘い(1933-1945)」の解説
1933年(昭和8年)4月、東京女高師に助教授として迎え入れられた。永井は既に東京女高師を去っており、体育教官には宮田覚造や三浦ヒロがいた。特に三浦の「表現内容を考えながらまとめていく」という独自のダンス教授法は、戸倉に新たな刺激を与えた。1935年(昭和10年)には宮田と三浦が相次いで退職し、後任に佐々木等が赴任、翌1936年(昭和11年)には竹之下休蔵も着任した。戸倉・佐々木・竹之下の新体制になった体育教官室では、それまで第六臨教にしかなかった体操教員養成課程を東京女高師本科にも設置することを画策し、1937年(昭和12年)に文科・理科・家事科と並ぶ第4の学科として体育科を設置した。師の二階堂はこれを祝して両手に花束を抱え、久しぶりに東京女高師に来校した。体育教官室では体育科の設置以外にも女子体育振興会の設立(1936年=昭和11年)、月刊誌『女子と子供の体育』の発行(1936年=昭和11年)、上野松坂屋での女子体育展覧会の開催(1937年=昭和12年)など先進的な女子体育の振興活動を展開した。1938年(昭和13年)、教授に昇任する。この頃の教え子に戦後の学校ダンスをリードした松本千代栄、2代目ラジオ体操指導者の上貞良江がいる。 1936年(昭和11年)の「学校体操教授要目」改正作業において、大谷武一、佐々木等らと並んで、女性として唯一の審議員入りを果たした。徐々に戦争が近付いている社会情勢の中、唱歌遊戯・行進遊戯(どちらもダンスの1種)が要目から削除されるのを阻止し、唱歌遊戯が尋常小学校1年から高等女学校まですべての教育課程で採用されたのは、戸倉の業績である。 しかし太平洋戦争が1941年(昭和16年)に開戦すると、敵性語排除の風潮でダンスの要目からの削除が再検討された。戸倉はダンスによるリズム感覚や詩情・感情育成の効用を、多数の作品を示しながら訴え、何とか要目の中に残すことができた。ダンスは小学3年生まで唱歌遊戯のまま守られ、女学校では「音楽運動」という名前になり、教材には『愛国行進曲』、『軍艦行進曲』など軍国主義的な作品を導入し、ダンス用語を逐一漢字語に置き換えていった。この間、1941年(昭和16年)に勲六等瑞宝章を受章、1942年(昭和17年)10月に大日本婦人会の会歌制定時に、振り付けを担当した。 1944年(昭和19年)秋、女子挺身勤労令により、戸倉は学生らとともに群馬県へ送られ、農村での勤労奉仕に従事した。畑仕事がうまくできないと嘆く学生に、戸倉は「学生は勉強するのが本分なのだから、仕方がないんだよ。そのうちまた勉強ができるようになるからがまんしなさい。」と声をかけ、優しく励ましたという。
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