体専時代のダンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 03:49 UTC 版)
「日本女子体育専門学校 (旧制)」の記事における「体専時代のダンス」の解説
体操塾時代より、トクヨはいずれ自分1人で指導できなくなることを分かっており、その時には「何が何でも夫れ夫れ卓越した先生にお頼みせねばなりませぬ」と語っていた。記録に残る最初にトクヨが採用したダンス教師は、石井舞踊研究所の蔦原マサヲであり、1926年(大正15年)のことであった。 トクヨが採用したことが判明しているダンス教師は、芸術舞踊の石井小浪(学校舞踊)、高田せい子(バレエ・西洋舞踊)、蔦原マサヲ(遊技・学校舞踊)、貝谷八百子(クラシックバレエ)、唱歌遊戯・行進遊戯の戸倉ハル、香川一郎、赤間雅彦、教育舞踊の升本一人、体育ダンスの渋井二夫、リトミックの天野蝶、アメリカのダンスのルシール・ウィルコックス(Lucille Willcox)の11人である。彼らはいずれもダンスの各分野で活躍した専門家であり、体専とは兼務であった。例えば高田せい子は高田舞踊研究所の所長、ルシール・ウィルコックスは東京YWCAのダンス教師が本務である。『学校体操教授要目』で教えるべきとされたダンスは唱歌遊戯・行進遊戯のみであり、トクヨが多種類のダンスを取り入れて体格改善を目指していたことが窺える。 昭和初期にプロの指導者を招いて芸術舞踊を教えていた学校は珍しかった。しかし『学校体操教授要目』へ従わせようという文部省の方針により、トクヨの死後である1942年(昭和17年)に芸術舞踊の教師は解任された。生徒にとって石井小浪や高田せい子らが解任されたのはショッキングな出来事であったと考えられるが、それを伝えるものは残っていない。ダンス曲は「勝鬨」(かちどき)、「軍艦行進曲」、「愛国行進曲」など軍国調のものに代わり、ダンスの各種ステップの名も「足尖歩」など日本語に置き換えられた。しかしこうした措置は一時的なもので、ダンスを主要なものとする学校の伝統は絶えることなく、戦後まもなく入学した黒沢智子がバレリーナになったほか 日本女子体育大学にもダンスの伝統は引き継がれている。
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