体専進学とオリンピックとは? わかりやすく解説

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体専進学とオリンピック(1935-1938)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/01 04:43 UTC 版)

三井美代子」の記事における「体専進学とオリンピック(1935-1938)」の解説

1935年昭和10年4月好きな運動続けたいという意向両親承諾し日本女子体育専門学校体専、現・日本女子体育大学)に進学した。この時、父の東京転勤に伴い家族上京したが、体専全寮制であったため、家族とは離れて暮らした校長二階堂トクヨは、すでに陸上競技選手として著名になっていた美代子に対しても、他の生徒同様に厳しくしつけを行い言葉遣いから上履き脱ぎ方まで事細かに指導した第8回明治神宮体育大会80mハードル走高跳2種目で3位入賞果たしたことで、1936年ベルリンオリンピック日本代表候補選ばれた。体専ではほかに先輩広橋百合子林月雲候補入り二階堂候補選手のための「ドイツ部屋」を寄宿舎内に設けて練習専念できる環境整えた美代子広橋といつも3人で行動するようになり、広橋漫才掛け合いのような会話おとなし美代子笑いながら見守っていた。種目80mハードル一本絞って練習励んだが、スランプ悩まされた。 1936年昭和11年5月オリンピック最終選考会が開かれ美代子0.1秒差で先輩下して優勝しベルリンオリンピック日本代表の座を勝ち取った校長二階堂広橋選手選ばれなかったことに激怒した一方で体専から美代子壷井宇乃子英語版)の現役生2人卒業生峰島秀選手に、松澤初穂卒業生)がコーチトレーナー選出されたことを喜び、他の体専教師お金出し合ってルビーの指輪激励のために贈った美代子試合時に練習時にもこれを付けて勝つために努力重ねたオリンピック出発前の読売新聞による選手紹介では、脚の長さは2尺7寸4分(≒ 83.03 cm)と校医が驚くほど長いが、足袋は9文7分(≒23.3 cm)とそれほど大きくないと書かれているその後同紙は80mハードルにクラウディア・テストニ(英語版)(イタリア)、アンニ・シュトイヤードイツ)ら強豪ひしめいており、美代子入賞するには奇跡を待つほかないと厳しい状況伝えたベルリンでの練習中、二階堂から手紙届き、そこには体専関係の4人の選手役員国宝讃える一文があった。 1936年昭和11年8月5日15時より女子80mハードル予選始まり2組出場スタート失敗して中盤持ち直したものの、4着でゴールし準決勝への進出逃した。それでもスタジアム観戦していた日本人は、体格恵まれた他国選手に交じって戦った小柄可憐な美代子感動したという。ベルリンオリンピックではワラシェビッチと再会し一緒に記念写真撮った10月2日鹿島丸で神戸港入りし、翌10月3日東京へ帰着した帰国後は寺尾正・文姉妹以来小柄な有望選手として1940年東京オリンピックでの活躍期待され練習励んだ1938年昭和13年)に体専卒業するに当たり二階堂校長呼び出され、1メートルほどある藤娘日本人形贈られた。

※この「体専進学とオリンピック(1935-1938)」の解説は、「三井美代子」の解説の一部です。
「体専進学とオリンピック(1935-1938)」を含む「三井美代子」の記事については、「三井美代子」の概要を参照ください。

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