体専進学とオリンピック(1935-1938)
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「三井美代子」の記事における「体専進学とオリンピック(1935-1938)」の解説
1935年(昭和10年)4月、好きな運動を続けたいという意向を両親が承諾し、日本女子体育専門学校(体専、現・日本女子体育大学)に進学した。この時、父の東京転勤に伴い家族も上京したが、体専は全寮制であったため、家族とは離れて暮らした。校長の二階堂トクヨは、すでに陸上競技選手として著名になっていた美代子に対しても、他の生徒と同様に厳しくしつけを行い、言葉遣いから上履きの脱ぎ方まで事細かに指導した。第8回明治神宮体育大会で80mハードルと走高跳の2種目で3位入賞を果たしたことで、1936年ベルリンオリンピックの日本代表候補に選ばれた。体専ではほかに先輩の広橋百合子と林月雲が候補に入り、二階堂は候補選手のための「ドイツ部屋」を寄宿舎内に設けて練習に専念できる環境を整えた。美代子は広橋・林といつも3人で行動するようになり、広橋と林の漫才の掛け合いのような会話をおとなしい美代子が笑いながら見守っていた。種目を80mハードル一本に絞って練習に励んだが、スランプに悩まされた。 1936年(昭和11年)5月にオリンピックの最終選考会が開かれ、美代子は0.1秒差で先輩の林を下して優勝し、ベルリンオリンピック日本代表の座を勝ち取った。校長の二階堂は広橋が選手に選ばれなかったことに激怒した一方で、体専から美代子と壷井宇乃子(英語版)の現役生2人と卒業生の峰島秀が選手に、松澤初穂(卒業生)がコーチ兼トレーナーに選出されたことを喜び、他の体専教師とお金を出し合ってルビーの指輪を激励のために贈った。美代子は試合の時にも練習の時にもこれを付けて勝つために努力を重ねた。 オリンピック出発前の読売新聞による選手紹介では、脚の長さは2尺7寸4分(≒ 83.03 cm)と校医が驚くほど長いが、足袋は9文7分(≒23.3 cm)とそれほど大きくないと書かれている。その後同紙は80mハードルにクラウディア・テストニ(英語版)(イタリア)、アンニ・シュトイヤー(ドイツ)ら強豪がひしめいており、美代子が入賞するには奇跡を待つほかないと厳しい状況を伝えた。ベルリンでの練習中、二階堂から手紙が届き、そこには体専関係の4人の選手・役員を国宝と讃える一文があった。 1936年(昭和11年)8月5日15時より女子80mハードルの予選が始まり、2組に出場、スタートに失敗して中盤に持ち直したものの、4着でゴールし準決勝への進出を逃した。それでもスタジアムで観戦していた日本人は、体格に恵まれた他国の選手に交じって戦った小柄で可憐な美代子に感動したという。ベルリンオリンピックではワラシェビッチと再会し、一緒に記念写真を撮った。10月2日に鹿島丸で神戸港入りし、翌10月3日に東京へ帰着した。 帰国後は寺尾正・文姉妹以来の小柄な有望選手として1940年東京オリンピックでの活躍が期待され、練習に励んだ。1938年(昭和13年)に体専を卒業するに当たり二階堂校長に呼び出され、1メートルほどある藤娘の日本人形を贈られた。
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