陸上競技選手として
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名久井農業高校時代は、全国高等学校駅伝競走大会に出場。1区を担当し、高校2年時の第28回大会(1977年)は区間13位、そして高校3年時の第29回大会(1978年)で区間賞を獲得した。 高校卒業後は白水昭興監督に見初められ、名門だったリッカー陸上部に入部。駅伝の他にトラック競技でも活躍。特に十和田八幡平駅伝競走全国大会に相性が良く、第32回大会(1979年)では1区3位、第36回大会(1983年)では3区区間賞の好記録を残し、リッカーの優勝に貢献した(リッカー陸上部は1984年に休部したので、第36回大会の優勝は有終の美を飾る物だった)。 リッカー陸上部休部後は白水の誘いで、日産自動車陸上競技部に移籍し、第37回十和田八幡平駅伝競走全国大会(1984年)でも5区〈最終区〉区間賞の快走を見せ、日産の優勝に貢献した。また、東日本実業団陸上競技選手権大会5000m走では1981年に14分15秒1のタイムを記録し、今なお大会記録となっている。全日本実業団対抗駅伝競走大会(ニューイヤー駅伝)にも出場歴があり、リッカー時代は第24回大会(1979年)~第26回大会(1981年)と3年連続3位、日産時代は第29回大会(1984年)よりずっと3位以内に入り、第33回大会(1989年)にはチームを悲願の優勝に導くなど長年に渡って活躍した。
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陸上競技選手として
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「モーテン・ボストロム」の記事における「陸上競技選手として」の解説
マラソンや10000m走、クロスカントリー、トレイルランニングなどといった長距離を専門とする選手である。クロスカントリーのノルディック選手権では、2001年にジュニア選手として銅メダルを獲得、またその他にも様々な大会での実績を残しているが、もっとも精力的に取り組んだのはマラソンである。フィンランド代表となるためのB標準である2時間18分(A標準は2時間15分)を切ることを目標とし、北京オリンピック代表を目指すためのオタワマラソンでは2時間18分51秒と惜しくも切ることができなかった。2012年のロンドンオリンピック代表も目指していたが、同年4月のロッテルダムマラソンでは2時間21分3秒とやはり届かなかった。なお2004年には福岡国際マラソンへも参加しており、その際の記録は2時間22分51秒となっている。
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