陸上競技選手としての活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 05:56 UTC 版)
「中澤米太郎」の記事における「陸上競技選手としての活躍」の解説
1922年(大正11年)、岸和田中学校5年次に日本陸上競技選手権大会に出場し、棒高跳で日本新記録(3m33)を樹立。なお、この大会では走高跳でも4人同順の優勝を果たしている。 棒高跳では、1928年まで森岡左喜生(早稲田大学)と競いつつ各種大会でたびたび日本記録を更新した。高師研究科在籍中の1928年5月20日、日本陸上競技選手権大会の棒高跳で出した記録(3m91)が、中沢が更新した最後の日本記録である。 1928年アムステルダムオリンピックに棒高跳と十種競技で出場。日本選手団の旗手を務め(選手団の名簿に「旗手」という肩書とともに載せられた最初の人物である)、棒高跳で6位入賞を果たした。中澤は日本体育大学最初のオリンピック選手と位置づけられている。 1929年、東京高等師範学校研究科を卒業した。
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